執筆大好き桃花です。
本日は、中学生時代に自分へ向けて書いた詩をお届けします。
ぽえむ【人生】⑦『強くなりたい』
強くなりたい
強くなりたい 止まらぬ涙も 明日を見据える力にできるくらいに すぐカッとなってイライラする気持ちも 溶かして優しさに変えられるくらいに きっと私は甘えていた 誰かが助けてくれるものだと待っていた でもそれだけじゃあ決して前へは進めない 優しく声をかけてくれる人がいても そっと背中を押してくれる人がいても この足を一歩踏み出そうとするのは私の心だから だから私はもっと 強くなりたい 強くなりたい 繰り返し降りかかる苦難も 次への階段に作り替えられるくらいに すぐに諦めてしまう弱い気持ちを 自分の声で振り払えるくらいに きっと私は動かなかった どうにかなるものだと怠けていた でも努力もなしには決して道は開かれない 必死に励ましてくれる人がいても ギュッと手を引いてくれる人がいても 先へ進もうとこの足を一歩踏み出すのは私自身だから 何も見えず不安な場所も 向かうものが大きくて恐い場所も 強い気持ちがなければ切り抜けられない 足踏みばかりしているのはもうイヤだから このままの弱い私じゃあもうダメだから だから私は今よりもっと もっと強くなりたい
あとがき
ちょうど中学生の頃って、「強くなりたい」と思う年頃だ。マンガやアニメの影響なんだろうか。その可能性は大いに考えられるだろう。スポーツやある業界での競争を題材にしたものは、恋愛や友情などを描いていても、主人公の一番の目標はその世界で〝強くなる〟ことだし、「敵と闘う系」も登場人物は〝強くなる〟ことを求めて修行を積んだり旅をしたりする。
「強い」というのはどういうことだろう?
運動部の部活で勝つことを言うのだろうか。確かに、スポーツではわかりやすく順位が決まるから、自分が「強い」のか「弱い」のか、判別がしやすいだろう。目標も掲げやすい。どんどん上を目指して、日々訓練を積み重ねる。
運動部に限らずとも、文化系の部活などでも上位を競うコンクールといった場があり、皆そこを目指して懸命に練習する。そこでは好みや世界観に有無を言わせない、徹底的な数値化による優劣のルールが君臨している。
では、野球がうまくなることが、人が求める〝強さ〟になるのだろうか。絵画や創作が入選することが、人としての〝強さ〟になるのだろうか。
どうやらそれらは別物のようだ。
確かに、スポーツや芸術がうまくなることは誰もが憧れることだし、そこを目指すことは一つの道として素晴らしい生き方だ。
じゃあ、誰もが憧れる、人としての〝強さ〟って何だろう? マンガ家がスポーツや冒険を通して描きたいと思う、真の〝強さ〟とは?
考えられるのは、〝心の強さ〟だろう。力や技の強さじゃない。スキルや能力の高さじゃない。
- 他人から傷つくことを言われても、傷つかずにいられる強さ。
- 好きな人にひどい仕打ちをされてふられても、落ち込まずにいられる強さ。
- 大切なものを失って、それでも心に穴を開けずに生きていける強さ。
- 努力が報われず成果がついてこなくても、気にも留めずにいられる強さ。
……中学生の頃はそんな〝心の強さ〟を求めていたけど、果たしてそんなもの、あるんだろうか。
確かに、心理学やメンタルトレーニングを積んで考え方のクセを変え、出来事に対する受け止め方を変えて楽に生きられる、ということは本当だ。自己啓発、心理学や脳科学、メンタルなどについて勉強する人は大勢いると思う。私も長年取り組んできた。
でも、
やっぱり他人から罵倒されたら傷つくし、
好きな人からふられたらショックだし、
大切なものを失ったら落ち込むし、
報われない努力を平気で続けられるほど、人間は強くない。
人間はロボットじゃないんだもの。いくら心について学んで実生活に取り入れていっても、誰も彼もが何があってもフワフワ浮いてられる仙人のようになれる訳ではない。
人には心がある。やっぱり生きている限り、どうしたって浮き沈みは避けられないし、感情は動き回るものだと思う。
そしてそれが時に美しく、光を放つ。眩いきらめきは瞬時に消えていってしまうからこそ。
……私はあの頃から、強くなってこられたのだろうか?
経験や年を重ねるというのは、痛みに慣れて平気になるということだろうか、
それとも傷口を増やし、恐怖体験を蓄積し、諦めの感情を育てていくことだろうか?
傷つきやすい心を持っている人も、少しでも生きやすい世界になっていくといい。
気分が落ちてるので明るい「あとがき」になりません;
ブログも「生き物」なので、見逃してください。
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