執筆大好き桃花です。
本日は、中学生時代に自分へ向けて書いた詩をお届けします。
何かの参考になれば幸いです。
ぽえむ【人生】⑥『自分の道を』
自分の道を
完璧な道を歩もうとしていたのかもしれない 失敗を知らずに生きていこうとしていたのかもしれない その分 体はこわばって 小さな石にもつまづくことにも気づかずに 前に進んでいるつもりでも 本当はもっと大切なことを見落としていることを知らずに 間違うことのない道などないのに ありがちの苦しみも 不幸と決めつけていたのかもしれない 自分だけがツラいんだと 周りを見失っていたのかもしれない もっともっとと欲張るあまりに 本当は幸せに守られていることも忘れて ツラいのは自分だけじゃないのに 他にも苦しんでいる人がいるんだと感じずに 完成した人間なら それ以上歩く必要はない 一人だけが苦しむなら 人間は助け合うことはしない 人間はみんな弱くて脆くて 失敗して苦しんで 誰もが怒って泣いて 落ち込んでキズついて それでも追い求めるもののところへ 頼りなくがむしゃらな足取りで 自分と同じように悩んでいる人と手をつなぎ合って ただひたすらに 人生という道を歩いていく 悩んでばかり 迷ってばかり ――― それでいい 失敗ばかり 過ちの連続 ――― それでいい 全て初めてだから 前など見えないのだから 自分の道を自分の足で必死に歩けば……〝自分〟を必死に生きればそれでいい
あとがき
当時は、生きようと必死だった。
どうして頑張ってもいろんなことがうまくいかないのかわからなくて、自分で自分を納得させようとしてた。
表ではあんなに元気なあの子も、口では何も不満を漏らさないあの子も、「きっと裏では大変なんだ、みんな同じ」って。
〝人生はしんどい、けどきっといいこともあるはず、だから生きていこう!〟
「きっと」の向こう側に隠された確証を得たかったけど、誰も責任を取るような言葉を選ぼうとはしない。「きっと」はあくまで希望的観測の呪文であって、信じてやってみるしかないものだし、それでうまくいかなくても、「だって絶対なんて言ってないでしょ?」とシラを切るための言葉である。狡猾な大人はキラキラしてるのに実体を伴わないそんな言葉をうまく使って、私達をふわふわさせた。
当時、私が受けた扱いはイジメの中では軽い仕打ちに入るとは思うけど、私にとっては生死を分ける大イベントだった。中学時代、私はイジメを受けていたのだ。
親にも打ち明けたし、スクールカウンセラーという人にも話した。でも、味方になってはくれないんだな、という思いだけが残った。カウンセラーの人はニコニコした笑顔だけが印象に残ってるけど、一体何を話したんだか心はなんとも変化がなくて、親は請け合ってすらくれなかった。私はずんずん、自分の中に閉じ籠もっていった。
闇に飲み込まれないように、必死に自分に希望を言い聞かせる必要があった。
なんでだろう? もう生きることは諦めたいと思ったのに。
さんざんノートに「○にたい」と大量に書き殴って、もはやそれだけが最後の望みだと思ってたのに、次第に自分を励まそうとする自分が現れたのだ。
世の中の不条理や、現実の儚さや、人間の非情さや、人生の残酷さ。そんなたくさんの闇の中を縫うように、もう一人の自分は、生きること、諦めないことを求めようとした。そうやって自分に言い聞かせていなければ、生きていけなかった。
アップしているのは、その頃から自分へ向けて書き続けた詩。中学生の頃の詩は特に拙いけれど、その頃の自分も含めて開示出来ればと言う気持ちで載せている。
今も、あの頃の延長のような暗闇が続くことにうんざりしてしまう。抜けても抜けても、繰り返し絶望する時は、「あの頃に人生を諦めていれば良かったのにな」と思ってしまう。
それでも命があるうちは、そんな私が書いたものが誰かの心をわずかでも救わないだろうかと、その一縷の望みだけで生きてる。
一人でも多くの人が、今よりも少しでも長く幸せを感じられる人生でありますように。
何か思ったことがあったらコメントしてね。
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