[無料]自作長編小説 『戦乱虫想(せんらんむそう)』 第6章 蜂族

アイキャッチ(戦乱虫想6) 長編小説
筆者
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執筆大好き桃花です。

大昔に書いた自作小説の第6章です。

拙いですが、温かな目で見守っていただけると幸いです。

【注意事項】

著作権の都合上、無断での商用使用や販売などお控えください。リンク掲載や権利者明記の上での拡散等はお断り無しでOKです。個人で活動していますので、何か少しでも感じられた方は応援や拡散等していただけるととても励みになります。

本作は、2012年に新人賞に応募(落選)した自作長編小説を一部修正したものです。つたなく恥ずかしい限りですが、自分の成長過程としての遍歴を綴る、というブログの理念から勇気を出して公開します。

『戦乱虫想(せんらんむそう)』あらすじ

目を覚ますと、俺は虫達が闘いを繰り広げる戦乱の世にいたーーー。思った事を現実化させる不思議の術を持ちながらも、自分が何者なのかわからない。

現世に戻れる方法を模索しながら、自分の〝族〟を探す旅に出る物語。エンタメ系。

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第6章:蜂族

その1

 次に訪れたところはまるで宮殿のようだった。城内へと掛かっている石橋も、遠くに高くそびえ立つ城の壁も、城をぐるりと取り囲んでいる門も、みな黄色いレンガでおおわれている。筒型の城の壁には所々に小さな窓穴が開いており、夏でも涼しそうな造りだ。色鉛筆みたいなオレンジの屋根は真っ青な背景に鋭く芯を伸ばしていて、白い雲が自由な格好で空に横たわり、宮殿の中には緑がいっぱいに施された庭があって、赤や黄色の花が悠々と咲き乱れている。おとぎ話に出てきそうな、鮮やかなコントラストと穏やかな雰囲気に、心はだいぶなごんだ。

 蝶達の話によれば、そこは蜂族のむところなのだそうだ。

 大きく口を開けた門の両側には門番が何人も、細長い槍を片手に立っていた。我々が通り抜けようとすると、無論止められ出身や目的などを聞かれたわけだが、胡蝶こちょうが蝶族の族長だと答えると、門番達は小声で二言、三言交わしたが、後ろに列を為している部隊を見て信用したらしい。だが入城を許可できるのは五人までだと告げられた。胡蝶はためらいもせずすぐ近くにいた四人を指さし、門番に確認をとった。銀のよろいに覆われ表情の見えない門番はコクリとうなずき、選ばれた五人で門をくぐった。

 俺は胡蝶に選ばれたわけだが、ちょっとでも後ろにいたら枠から漏れてしまったかもしれないと思うような適当な選びようだった。恐らく、色んな場面を想定し、どの人物がどこで必要なのかなんてさっぱり考えていないのだろう。ここに来た時だって、蜂族が敵か味方かもよく確かめないままだ。胡蝶の行き当たりばったりな性格にも骨が折れる。

 宮殿の中は外から見る感じよりもずっと広く、古風なりには味があって、俺は好奇心を絶やさず史跡巡りのように鑑賞しながら歩いた。案内する兵士達の重装備は緊張感をあおる鋭い音を規則的にかなで、日差しがあまり入ってこないために元々涼しい城内の空気を一層ひんやりさせる。

 角を曲がると水の音が聞こえてきた。仕切る壁はなく、自由に出入りすることができる中庭を取り囲むように廊下が大きな円を描いている。中央には真っ白な石で出来た噴水が設けられ、青空に向かって飛沫しぶきを巻き上げている。遠くから見ると上品な造りの噴水は周囲の景色に見事に溶け込み、爽やかな光景を生み出しているが、そばに寄ればとてつもなく力強い水の力をの当たりにするに違いない。中央から吹き上がる水の柱は樹齢何百年もの古樹の幹みたいに太く、見上げなければならない程の高さまで吹き上がっていた。近づけば雨のような水滴をかぶることになろう。

 中庭を突っ切った方が早かったが、案内人はご丁寧に廊下をぐるりと周り、ちょうど真向かいの入り口から別のむねに入った。その後、長く真っ直ぐに続く廊下をしばらく歩いた。一定の間隔で開いた窓穴からは、緑の葉っぱが太陽の光を浴びて綺麗な黄緑色に発色しながら顔を覗かせている。逆側の外に目をやれば、白く可憐な花をつけた木からピンクの大きな花びらを持った木まで、様々な種類の植物が咲き乱れている。木も花も自由奔放ほんぽうに揺れて見る者の目を楽しませ、城内で蜂達とともに生きていることが感じられた。

 二階の廊下で行き止まりになっているところがバルコニーのようにせり出し、ちょうどそこをくぐるように進んでいく。バルコニーの手すり下の壁に掛けてある絵画がまず目を引いた。一同の進行に合わせて、首を上向けながら絵に見入った。なんとかという女性が子どもを抱いた、全体的に暗い色彩の絵だ。名前を思い出せないが自分は確かにこの絵のことを見知っているということを、意識のどこか遠い場所で認識しながら、口をぽかんと開けて進む。母親が子を見つめるやさしいまなざしに記憶を吸い取られていくのをどうにもできないまま、むずがゆい想いで絵を行き過ぎた。

 そこから奥には、バルコニーの壁に掛けられていたのと同じタッチの油絵が一面に飾られていた。まるで小さな美術館だ。恐らくこの城の上位の者が、同じ画家を好んで描かせたのだろう。絵の雰囲気は何の変哲もなく俺好みではなかったが、一つの清楚せいそな空間が保たれており、やさしい光が斜めに注ぐその場所を俺は気に入った。

 絵を鑑賞してたら、無性に何かが懐かしく思えてきた。だがそれが何なのかちっとも思い出せない。思い出せないどころか、ものすごい勢いで闇に吸い込まれていくのだ。その代わり、族に対する羨望せんぼうが俺を(すく)めた。胸をかき乱されるくらい激しく狂おしく、いま族を欲する。それぞれの族の、それぞれの虫たちが、こんなにも個性豊かに、自分たちというものを持っていることを熱く賞賛する。同時に、居場所不明の自分の身の冷たさに芯から震え上がる。

「どうした」

 胡蝶の声にハッとした。だが、彼女に繊細な思いを告げたところで何も伝わらないだろう。

「何でもない」

 努めてはっきりと言った。彼女の体からこぼれるキラキラした粉がやさしく香って、不意に寂しさが胸をかすめ、途方に暮れそうになる。

その2

 分かれ道を何度か曲がり、個室のような部屋の入り口を何個も過ぎたところにある会議室らしきところに俺たちは通された。どうやらここが目的地のようだ。自由に座るように言われ席についた。

 ここまで連れてきた六人の蜂は、三人ずつ向かい合って奥側に腰掛けた。

「まず、我らが蜂族の城へ来られた理由をお聞かせ願いたい」

「さっき言った通りだ。族長に会いたい」

 胡蝶は部下にも説明する暇を与えず、せっかちに告げた。

「我々蜂族はこの城の中に棲む我々と、城下町に棲む蜂たちで構成されている。族長はこの城の女王である」

「この五人で構わん、通してくれ」

 攻め寄る胡蝶に、長目な顔つきの男はニタリと笑うと、指を組んだ両手を机の上にトンと置いて言った。

「他族として言うが、何も考えずそんなに先を急いで、一族の(おさ)として、大丈夫なのかい?」

 胡蝶は咄嗟に、耳の脇に血管を浮き上がらせた。

「それはどういう意味だ?」

 元々気の短い胡蝶がカッと来るのも無理はないのかもしれない。部屋に入室してからというもの、奴らの態度は何とも挑戦的で嫌味なのだ。

 反抗的な蜂は体を大きく引いて背もたれに寄りかかってから、また前屈みになって両手を机の上に乗せた。

「いやあね、忠告してるんですよ。そんなに若くても指導力があるからこそ(おさ)をしているんでしょう? そうでなければ一族の者はついてくるわけありませんものね。落ち着きがないなんて族長にあるまじき性癖だ。すべては巧みな作戦の上に成り立っていなければならない。その焦りも、何か考えがあってのことでしょう? そうでなければただの無能だ」

 和紙でできた心臓みたいに胸の内がすぐ滲み出てきてしまう胡蝶は、真実を突かれて顔を真っ赤にして(いか)り、猛烈な屈辱に耐えていた。俺が彼女の腕と口の動きを術で封じていなければ、彼女はなんの考えもなしに目前の蜂に斬りかかっていたはずだ。ここは何万の兵士がいるかわからない城の中心部。まだ族長の居場所すら突き止めていないのだ。思い立ったら感情そのままに動く胡蝶にはほとほと骨が折れる。声の出ない胡蝶に代わって、俺の隣にいた武人が口を開いた。

「我々は胡蝶殿に生涯付き従っていくことを誓い、こうして部隊を()している。武術や蝶舞など極めて優れたところがあるからこそ信頼を置いているだけだが、彼女とて完璧ではない。欠点があれば我々部下で補っていく」

 他の武人達もそうだそうだと賛同して勢いづける。口を開くことのできない胡蝶は部下の忠誠心に目で感動を表し、そう言わせる実力があるのであろう自分に口元で満足していたが、蜂族は数匹そろって彼の言葉の(あら)を見つけて嫌らしく笑っている。

「部下がどんなに優秀であろうと、上に立つ者が無能ではまとめられないでしょう」

 床の上に声を払い落とすように、彼らはくすくすと笑った。

「私はいけないとは一言も言ってませんよ? 注意して差し上げているだけです。せっかく我々の城にいらした他族の方々なんですから」

 細めた目で仮面のように彼は笑った。恩着せがましく下から見上げるふうにして答えを待っているソイツの目を術で潰してやろうかと思った。俺もドカンと何か言ってやりたかったが、また針で刺すような皮肉で返されることに抵抗があったため、言いあぐねていた。

「いやぁしかし」

 遠くへ視線を浮かせて、ふてぶてしい蜂は呟いた。

「君の瞳は魅力的だ。目力(めぢから)がありすぎて、目を合わせて話しているのが疲れてきますよ」

 一瞬別の場所から俺だけギリッと睨まれたように感じ、不意の恐ろしさで術にムラができた。なんとかそれを立て直すべく集中する。

 突然蜂たちは小声で何か合図しあい、一番向こうにいた二匹の蜂が奥の扉からすっと向こうへ消えた。

「話途中に失礼ではないか。彼らはどこへ行かれた」

 胡蝶の奥隣にいた武人が抗議する。先程会話をはじめた蜂がゆっくりとそちらを向き、何を考えているのかわからない細目でまばたきを二回すると、ごたごたを起こすのはよくないと判断したのか、「これは失礼をした」と謝った。だがその割には奥へ消えた者達を呼び戻そうとはしない。

「我々もこんな少人数で蜂族の城へ招き入れられたのだから、何かあったらひとたまりもない。誠心誠意の対応をお願いしたい」

 まだ若い武人だが、礼儀正しく堂々とした口調で、こちらの意向をきちんと伝えることに成功していた。蜂族の者が「そうだな」と口の中で呟いた時、先程出て行った蜂が戻ってきて、例の蜂に耳打ちした。

「ご無礼を申し訳なかった」

 礼儀知らずを自覚して言ったのだろうか。彼らは立ち上がって一斉に頭を下げ、しばらく静止した。女王の間へ案内致します、こちらから、という言葉とともに奥の扉が大きく向こう側へ開き、広大で明るい部屋が広がった。

その3

 チェス板のように白黒のタイルが床一面を覆っていた。六角形のタイルは磨き上げられた大理石のようにツヤツヤと輝き、鏡みたいに眩しい。天井はベレー帽状に盛り上がって屋根を形作っており、内側は銀の塗装でやはり目がチカチカしてくる。見慣れないモノが嫌いな胡蝶は思いっきり床を踏みつけている。デザインから何から気にくわないらしい。特に明るさは彼女の視界をいっぺんに狂わせた。ギュッと目を閉じたまま地団駄を踏んでいる様子はおもちゃをねだる子どものようにしか見えない。

 奥にいくつもあった細い出入り口から蜂族の兵士が一斉に広間になだれ込んできた。どんどん押し寄せてくる光景をぽかんと見つめていたがすぐ我に返り、蝶族の反応を見ようとした。だが彼らは目がくらんで開けていられない様子で、音にびっくりして必死にこじ開けようとしているところだった。

「大群か? サイジョウヨシヒト」

 すぐ隣にいた武人が目を(こす)りながら言った。蜂族の兵士は今にも我々五人を取り押さえようとサーベルを片手に近づいてくる。目を開けていられるのが俺しかいないことを察すると、しゃがんで床に手をかざし、力をすり込んだ。

 俺の前にいる蜂達が全員ビクッと立ち止まった。駆け足で近づいてきた反動で前方にはじき出され、後方の兵士が倒れるとドミノ倒し状態で皆バタバタと前に倒れ込んだ。必死に足を持ち上げようとするが、鎧のブーツが上がらない。急にその場から動けなくなった彼らは恐怖で青ざめ、慌てて足を抜こうとした。起き上がれた者は隣の者のブーツを床から離す手伝いをしたりしていたが、一向に持ち上がらない。後ろで足の力がある者が一人だけ勢いで足を上げた。上がった反動で周りにいた蜂が見たのは、靴の底にこびりついたベトベトしたオレンジ色の液体だ。やっと足を離すことができた蜂も、もう片一方の足は引き離せなかったので上げた足のやり場がなく、また後ろに転んで足の自由を奪われた。途方に暮れた蜂は先程までの規則正しい隊列とは打って変わって、てんでバラバラに騒ぎ始めた。ある者は声を上げて恐怖から逃れようとし、ある者は屈み込んで動かない。焦ってますます混乱する蜂もいた。隣の蜂と抱き合うようにして脱出を試みる者もいた。

 毒舌を振るいまくっていたヤツらの仲間全員にこうして仕返しができて、だいぶすっきりした。思い知ったか、と心の中で叫んだ。

「やはり、調査した通りだったな」

 高い声とともに、奥から姿を現した蜂がいた。眼鏡をかけてひょろ長く、薄手のコートを羽織った学識専門の蜂だ。ヤツも同じ目に合わせることに造作はなかったが、しばし様子を見ることにする。

「お主達の実力は把握した。その不思議な力を止めてくれぬか」

 術を解くことに多少迷いはしたものの、また襲ってこようとも術があると思えば恐くなどない。言われた通り力を抜いた。

 蜂達は術を解かれた反動で一斉に前へつんのめり、皆押し重なるように倒れ込んだ。頑丈な鎧の重みも加えられ、すぐに起き上がれない。立ち上がり武器をかざそうものなら、もっと強烈な術でも仕掛けてやるつもりで蜂族の兵士達を見回していたが、彼らは自由になった自らの足を眺めて不思議がっているばかりで、襲いかかってこようとする者はいない。俺は奥の入り口の方へと視線をずらした。

 黄色のローブに透ける程薄い黒の縞模様をした上着をうちかけた男は、知的な表情で俺を観察していた。俺の動作、目の動きや手足の動かし方、筋肉への力の入れ方から呼吸の仕方まで、すべての運動作用を余すところ無く捉え、記憶している様子である。俺を研究材料として見、向けられている針のように鋭い視線に、何と表現したらいいかわからない生物学的な恐怖が足下(あしもと)から押し上がってきた。檻や柵がなくとも、閉じこめれられたようで逃げ出したくなるような気分だ。程なくちょっと偉そうな蜂が二人ほど出てきて命令すると、力の抜けた大勢の兵士達は慌てて立ち上がりすごすごと奥へ退いた。

「こちらへ。私の研究室へご案内する」

 返事を待たずに振り返る男の背中に声をかける。

「俺達は族長に会いに来た」

 男はすっと振り向くと、鋭い視線を送ってよこした。彼に限らず、蜂族の瞳はいつも冷たい。言葉を使わずに断られているふうに感じてしまう。

「族長である女王はただいまお取り込み中だ。お身体が空くまで私の部屋で待機するとよい」

 それだけ言い、こちらの様子を構いもせずに彼は再び振り返ると、そのまま奥へと消えた。強制的に来いと言っているようなものだ。ぶしつけな態度が気にくわない。

 振り向くと、胡蝶達はギュッと目を閉じた瞼の上から、両手で目を押さえていた。

「目が痛いのか?」

「痛いなんてもんじゃない。目から血が吹き出そうだ」

 武人の言葉に慌ててこの部屋の照度を大幅に落としたが、彼女らの様子は変わらない。そうこうしているうちに胡蝶が大声で騒ぎ始めたので、俺自身も動揺してしまった。どうしようもなくなって彼女の目を術で触れてみたら、何事もなかったかのように手を離したので、他の蝶にも同じようにしてやった。

 痛みの取れた胡蝶が俺の目を覗き込み、「お前はなんともないのか?」と問うた。

「眩しかったけど、痛くはないよ」

 すると胡蝶は黙り込み、寂しさを入り混ぜた不思議な表情で俺を見てきた。それは今まで見たことのない、彼女の遠くのものをただ〝見る〟だけの表情だった。

 ザワッとした俺は、やろうとさえすれば彼女の心の中を読むことが出来ただろう。だが無意識のうちに読心術を見送った。一度見送れば笹舟に乗ったようなそのタイミングは綺麗に流れていき、途方に暮れた一瞬という過去だけが不整形に残っていた。

その4

「行くぞ」

 チェス盤の上を歩み出したのは胡蝶だった。彼女の命令には逆らえない蝶族の部隊はついていく。先ほどの蜂の視線を思い出して研究のエサにされそうだということを伝えようとしたが、うまく言えなかった俺はどうにでもなれと思って胡蝶達を追いかけた。

 途中細い通路を通り抜けて、辿り着いたのはこぢんまりとした部屋だった。入ってすぐに目につくのは、奥の壁にぎっしりと詰められた本だ。どれも古そうで、背表紙が茶色や深緑のものばかり。手前には研究をするのに必要最小限な顕微鏡やシャーレ、ピンセット、ガーゼやスポイトなどが置いてある机がある。机も相当年月が経っていそうな木製のものだった。学者系の男は、散らばった机の上の物を適当に寄せたりしながら口を開いた。

「この部屋に入らないと、隣の部屋へいけないのだよ。この城、研究者の部屋は狭くてね」

 部屋の中からはほんのり甘い香りがした。においの強い方へと辿っていくと、さらに扉があって奥へと行けるようになっている。

「見てみるか?」

 俺の様子に気づいた蜂は、棒立ちでそう尋ねた。

 彼が開けた扉の向こうにはいくつもの棚が並んでおり、その上には試験管が数え切れない程たくさん立てられていた。ぷんと甘いにおいに覆われる。俺がその光景に驚いていると、蜂はキラリと眼鏡を光らせ、試験管を一つ持ち上げて、片手で仰いでにおいを嗅いだ。その管を俺の方へ近づけて、お前も嗅いでみろ、といったふうに持ち上げる。右手に取って鼻のところへもっていき、彼がしたように左手で仰いだ。

「あ」

 なんとも言えない不思議ないい香りがした。こんなに甘いにおいに囲まれた部屋の中で、一つのにおいを識別できることにまず驚いた。試しに手当たり次第ににおいを嗅いで回ったが、他のどの試験管も、それぞれ違ったにおいを確かにもっていたのだ。一個ずつ名前をつけられそうなくらい、においの個性がしっかりと分かれている。嗅いでいくうちに新しいことを発見してくような楽しい気分になって、次々に試していった。黙って俺の様子を見ていた蜂は、まるで自分がしていることを理解し、同様に感じる仲間がいることを喜ぶかのように、生き生きと瞳を輝かせた。

「僕は学位階級ゼータ第二十六段の芦奈賀(あしなが)という。普段は花蜜(はなみつ)の研究をしている。」

 俺は彼から試験管に視線を移し、じっと思い出そうとしていた。花蜜。聞いたことが、あるような、ないような。確かに俺は、この目の前の液体を知っている。だが名前が出てこない。〝花蜜〟というのであったか。喉のところあたりまで出てきているのだが、思い出せなくてイライラした。なんでこんなに身近だったはずのものを忘れてしまうのか。

「花蜜にはあらゆる効果や効能がある。採取できる花の種類によって、香りから治せる病気まで様々に異なるのだ。成分を調べ、何に効くのか、どれくらいの量が適量なのか、混合させて新たに発生する物質はないのか、などを日々研究している」

 彼の言葉を聞いていたら、思い出そうとしていたものの名前がすっと消えてなくなってしまった。もうそれは〝花密〟でしかなく、俺が言い当てようとしていたものが実在していたのかすら、ぼんやり薄く漂った影となって漂っている。

「俺のことも、調査したのか?」

 話を切り替えることで心も切り替えたくてそう言った。彼は穏やかな目つきからいつもの表情に戻り、キュッと縛った唇を再度開いた。

「特殊任務だ。情報部隊というのがいて、現場に出ていく部隊だがな、それが持ってきたデータを収集して特徴を見極め、可能性を導き出す。何パーセントの確率でこういった事象が起きる、といった世界だ。お前のことははっきりとはわからなかったが、ある特殊な力を持っているということだけは調べていた。それは僕らが知っている他族は持っていない、魔術とも言うべき不思議な力だ。実際に目にするまでは、僕も信じられなかった」

 そう言われると少し前までは得意になったものだったが、今は事情が変わっていた。何かを得るということは、代償として何かを失うものであるのかもしれないと感じ始めていた。

「蜂族の情報網は極めて優れていると有名だ。蝶族の族長も、それを知っていてここに来られたのだろう」

 その言葉を聞いて胡蝶のことを思い出した。前の部屋においてきたままだ。

 最初の部屋に戻ると胡蝶たちはすっかりくつろいでいて、ポットに残っていた紅茶から茶菓子まで空にしていた。あまりの図々しさに注意しようとしたところ、芦奈賀が手際よくお盆に載せ直して「気にしないでくれたまえ」と言い、皆の前へ運んだ。

 何気なく見回した部屋の中は、研究の色一色だった。本棚には紐で綴られた紙が何分冊にもなって立てかけられている。その一番端の背表紙を見ると、「分類Ⅱ―⑧ 採集箇所、分量、効能」と書いてある。思わず手にして中を開くと、米粒のような文字がびっしりと並んでいた。無知ながらも感心していると、芦奈賀が俺に気づいて微笑んだ。

「これしかないからな、ホント」

 彼は一冊を手にして開きながら、数ページめくっては読み返すように目を走らせた。

「楽しいのか?」

 資料を片手に彼は細い目をさらに引き伸ばすように細め、閉じて本棚に戻した。

「ああ。新しいことを知っていくのはおもしろい。蓄えた知識を研究で確かめ、さらに増やして実験に応用し、今まで知られていなかった新たな情報を発見するときの気分と言えば最高だな」

 これさえあれば生きてゆける、という屈強な勇気の種を眉に蒔いて、芦奈賀は目を細めた。

 また(さら)われてゆく。彼の自信と余裕が俺の存在を揺さぶって落ち着かない。気持ちが腹をすかせて、芦奈賀を見据え、吸収できない栄養素を大口開けて欲する。空っぽな胸の中には生命の吐息だけが入り込んできて、ますます(よだれ)がしたたり落ちて耐えられない。

 たぶん俺は何度生まれ変わったとしても、彼が熱中している難しい研究学問の世界を楽しいと思うことはないだろう。それでも彼がそういうものに一途に向き合っているということが、きらり輝く夜空の星みたいに思えたのだ。

その5

 芦奈賀の部屋でしばらくゆっくりとさせてもらった。彼の部屋の中にあるものは、すべて専門的で使い古されているものだったが、真新しい気持ちで眺めると、懐かしい感覚と新鮮な気持ちとが入り交じった不思議な感覚を与えてくれた。

 夜の時刻、部屋に入ってきた二人の兵士の言葉を受けて、彼はローブを羽織った。俺達を入り口に導くと、「女王の間は最上階だ」と言って扉を開けた。

 ずっと気にかかっていたのだろう、胡蝶が彼の背中に「他の者達は?」と問い詰めると、芦奈賀は足を止めずに「待っていただいている」とだけ言った。

 チェス盤の部屋から会議室とは別の入り口に入ると、城の入り口で止められたすべての蝶が待機していた。胡蝶は表情を明るくして一人一人の名前を呼び、再会を喜び合った。普段険しい顔の彼女しか見ていないせいか、胡蝶の笑顔は妙に輝いて見えた。俺も奥にいた薄紅を探し出し、ここぞとばかり手を握って無事を喜んだ。

 チェス盤の大広間を抜け、通路を進んだ先の広い階段を上ると、一面に青いカーペットが敷き詰められた部屋に出た。

 遙か先にある玉座に女王は腰掛けていた。鋭く冷たい眼差しで俺らを一望し、「ようこそ」と言った。ちょっとトゲがある(いばら)みたいな口調だ。

 横にいた芦奈賀は最敬礼して退いた。階段を降りていく足音を聞き終えてから、胡蝶が大きな声を室内に響かせた。

「私は蝶族の族長だ。今日は蜂族の族長殿にお聞きしたいことがあって、お邪魔した」

「前へ」

 品格のある女王の声が放たれ、俺達は操り人形のように前へ進み出た。

「私は蜂族の最上に立つ巣棲(すずめ)と申す者だ。他族で言うところの族長になろう。先程はご無礼をすまない。不思議な術というものを確かめたかった」

 俺に視線が注がれる。

「本当だったのだな」

 鋭い視線に刺され、言葉が出てこない。

「だとすれば、この男のことは知らないな?」

 代わりに声を発したのは胡蝶だ。力強く肩を叩かれることにももう驚かなくはなったが、痛みに耐えていなければならないことには変わりなかった。

「蜂族ではない」

 目をすうっと細め、しばらく見つめた後で女王は保証した。

「蜂族であれば、今すぐ欲しいところだ」

 胡蝶とは正反対の細い目でそう言われると、背中のあたりで恐怖が沸き立った。

その6

 女王は黙って俺を観察するように眺めていた。女王は既に芦奈賀からの報告を受けて、俺のことで知りうる限りのことは知っているだろう。それでも余すところなく解析しようとするかのような、鋭く冷たい瞳。あまりに見つめるものだから、不思議な力について問い詰められるものと覚悟をしたら、女王はその目をそのまま胡蝶へと向けた。

「して、族長ご自身は、なぜ旅をしている?」

「人さがしをしている」

 心臓が(にわか)に反応した。これまでは口が裂けても言わなかったことを、胡蝶は俺の横で話し始める。

「知っているなら教えてくれ。蜘蛛族を探している。奴らを見て生きて帰った者はほとんどいない。だからどこでどんな暮らしをしているのか、全くと言っていい程知られていない。

 私も暇を見つけてはあちこち旅して情報を収集し、奴らに繋がる手がかりを探してきたが、どれもこれも噂や出任せばかり。話が族によって食い違っているのだ。どれを信用していいかわからぬ。

 だが、研究分析から諜報ちょうほう活動までを得意とする、優れた知的能力を持った信のおける種族もいる。情報網に()けている蜂族ならば、ある程度のことはわかっているのではあるまいか?」

 蝶族の仲間もみな心を引き締めて聞いている。

 巣棲は切れ長の鋭い目をゆっくり開閉させると、息を吸った。

「奴らには我々の軍隊も大量に殺された。その後、二、三度使間者かんじゃを送って探らせようとしたが、皆戻らなかった。……奴らが毒を使うということはご存じか?」

「ああ。蟻族に聞いた」

 いつの間に。胡蝶は俺と長い時間一緒にいたはずだが、俺と離れていたほんのわずかの時間を使って情報を集めていたのだ。

「蝶の族長殿は、あの女を捜しているのだな?」

 胡蝶は頷きこそしなかったが、俺は彼女の心中がぐっと熱く(たか)ぶっていくのを横で感じていた。巣棲は、運命の進行を止められないことを知った唇を静かに開く。

「気をつけろ、舞う者の(おさ)よ。ヤツは、恐ろしい」

 胡蝶はそのままの姿勢で、視線だけをくいと持ち上げて女王を見た。

「毒は元々、我ら蜂族の特技だった。なぜ奴らが毒を扱えるようになったのか。その理由には、(しゆ)(ことわり)を超えた何かがあるはずだ」

 巣棲は俺達から視線を外すと、誰もいない空間へ向かって一人言のように話し出す。

「奴らは狩りには出かけぬ。待ち伏せ型なのだ。待って仕留めれば、表に出てこなくてよいからな。奴らを憎んでいる種族は数多い。忽然こつぜんと姿を消した仲間が蜘蛛族にやられたかもしれぬとなれば、どこも偵察の部隊を送る、それが奴らの餌を増やすことになるのであろう。

 奴らの住処(すみか)は他族との距離を置いた場所、日の落ちる森のどこかだと推測している。

 我々の有している情報はこれで全部だ。

 とにかく、全ては謎に包まれている。それでもゆくのか」

 胡蝶は「ああ」と低く地面を踏み固めるような声を出した。もう気持ちを変えるつもりはないらしい。

「ヤツを殺すためだけに、生きてきた」

 ドキッとした。巣棲は胡蝶を強い眼差しで見た。宮殿の中に冷えた風が入ってくる。

 胡蝶もやはり、族同士の争いに身を置く者の一人だと感じた。考えたくなかったけれども、この世界では争いは避けられない。自分が生きていくためには、他の誰かを犠牲にしなければならないのだ。望む望まざるとを選ばず。

「私と部下だけでは勝算は低かったかもしれぬが、そのためにコイツを連れてきてある」

 女王の冷徹れいてつな瞳が俺に向けられた。俺は自分の族を探しているだけだと思っていたが、今となって、この見えない戦いに巻き込まれていて、もう後戻りできないと知った。

西条さいじょう義人よしひと殿の術か。人を蘇生そせいさせること以外は出来るという」

 蜂族の情報網の広さに驚いた。誰にも口外したつもりはないが、再生の術が使えないということが自分でも気にかかっていたため、心中を読み取る術を使えるんだろうかと疑ったほどだ。

「奴らには我々も痛い目にわせられている。恨みはあるが、これ以上仲間を減らすわけにもいかぬ。退治してもらえるというのであれば、蜂族一同心より御礼申し上げる」

 女王の両脇に控えていた八人の家来が、一族の気持ちを代弁して頭を深々と下げる。

「お主ら蜂族の気持ちも頂戴した。必ずや仕留めてみせる」

その7

 巣棲は家来の一人を呼び寄せると合図をした。下命された家来は敬礼した後いったん姿を消したかと思えば、白衣を着た研究員を従えて戻ってきた。お盆を掲げてやってきた細身の男は、胡蝶の目前で(ひざまず)き、二つの容器を乗せた盆を高らかと持ち上げた。

「黒い粉は蜘蛛族の扱う毒を粉末にしたもの、黄色い粉はそれを消す薬だ。利用されるなら好きにするがいい」

 胡蝶は即座に誰の確認も取らずに叫んだ。

薄紅うすべに、飲め!」

 驚く俺と周りの男達が騒然と見つめる中、最後尾から進み出た薄紅は、毒と薬を混ぜ合わせた粉末を仰いだ。

「ん……」

 彼女は一気に倒れ、気を失った。胡蝶の身勝手な行動に、呆然ぼうぜんと立ち尽くした。

「胡蝶ッ!!!!」

 気がつけば俺は、胡蝶に向かって何万もの矢を放っていた。術で生み出した無数のやじりは、怒りに応じて鋭利に風を切った。何本かの矢先が胡蝶の肌に赤く線を引いたが、最小限の痛手で彼女も身軽にかわしていく。

 すぐ足下あしもとには目を閉じて動かなくなった薄紅がしおれた花となっている。彼女からこぼれ落ちる粉の甘い花のようなにおいが次第に薄くなっていく。悔しくて、胡蝶目掛けて力任せに術を放った。部下が胡蝶を援護するように武器を構えるが、見えない力を相手に皆、足の震えを止められない。

 これまで味方のように彼らについてきた訳だが、蝶族でない俺が胡蝶達に忠誠を誓う必要はないのだ。むしろ他族なのであれば、いずれ剣を交え敵対する相手かもしれない。でも、俺一人でもやり合う自信はあった。戦い慣れたはずの武人達は、予想もつかない奇妙な攻撃に、次々に傷を増やしていく。

「待てぇっ!!」

 心は次から次へと術を浴びせる勢いで燃えさかっていたが、最後の言い訳を聞いてやろうという気持ちで術を収めた。

 身をていして胡蝶を守っていた武人達は、俺が手を止めた拍子に地面にしゃがみ込んだり、わなわなと唇を震えさせたりした。命を損なう程の攻撃はしていないが、この際蝶族との関係が途絶えても一向に構わないという強固な姿勢で胡蝶を見ていた。

 頬や腕に傷を負いながらも、武人らしく動じない表情をちらりと薄紅に注いだ胡蝶は、再び顔を上げて力強く言葉を放つ。

「薄紅の体内で今、この毒に対する抵抗力を生成している。しばらくすれば、毒を消す鱗粉(りんぷん)を生み出すことが出来るようになる」

 本当だろうか。いつだって思いつきで飛び込んでいく胡蝶への疑念は深い。後先考えない荒々しく危険な判断は、とうとう薄紅の身にまで及んだ。これまでなんとか見逃してきた訳だが、今回ばかりは許しがたい。俺の一念で胡蝶をどうすることだってできるのだ。胡蝶への態度や自分の立場について、改めて原点に立ち返って考え始める。

 二人とも何も言わず、肩で呼吸しながらただ見つめ合っていた。

「健闘を祈る」

 不意に巣棲が何事もなかったかのように高みの椅子から冷静な声で幕を閉じたため、俺はここで胡蝶をどうにかしようという気ががれてしまった。

 危難を脱したと察した武人達は、寄り集まってお互いの具合を確かめ合う。そして胡蝶を案じ、気遣いの言葉を受ける。傷ついて壊れても、温かく立ち直る。

 そんな中、俺だけがぽつんと、誰とも繋がりを持たない不安定な立場でその場に居尽くしている。

 どんなに優位に立っていても、神掛かった力を持っていても(かな)わない、強大な繋がりを前に立ち尽くす。

第7章 蜘蛛族

オマケ:登場人物ネーミング由来

芦奈賀(あしなが):アシナガバチ。漢字は当て字。

巣棲(すずめ):スズメバチ。漢字は当て字。)

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