執筆大好き桃花です。
大昔に書いた自作小説の第3章です。
拙いですが、温かな目で見守っていただけると幸いです。
【注意事項】
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本作は、2012年に新人賞に応募(落選)した自作長編小説を一部修正したものです。拙く恥ずかしい限りですが、自分の成長過程としての遍歴を綴る、というブログの理念から勇気を出して公開します。
目を覚ますと、俺は虫達が闘いを繰り広げる戦乱の世にいたーーー。思った事を現実化させる不思議の術を持ちながらも、自分が何者なのかわからない。
現世に戻れる方法を模索しながら、自分の〝族〟を探す旅に出る物語。エンタメ系。
第3章:蟻族
その1
蛾族の村を出てから夜通し歩いていたため、日が照り始めて自分たちが砂漠のど真ん中にいると知った時は唖然とした。胡蝶達は慣れたものらしく少しも動じることがなかったが、生まれも育ちも都会の俺は、テレビの中でしか見たことない光景に自分が立っているという衝撃に、驚きを隠しきれなかった。食料は、水は、といった不安が次々に汗しずくとともに吹きこぼれていったが、すべて自らの術を思い出すと静かに消えていった。それでも歩き続けていけば術の存在さえも不安に思えていったが、そんな時は手のひらの上に小さな地球の半球を出現させ、青や緑を見て心をなごませた。傍にいた蝶達は初めて見るものを不思議そうに見るだけで、声をかけて来る者はいなかった。
太陽が南中した時は立っていられないくらいの直射日光に襲われたため、軍の幹部が隊員を止まらせて休憩をとった。
砂漠のど真ん中で、俺は便利屋みたいにコキ使われた。飲み物を出したり、体感温度を下げたり、オアシス(無論、そんな言葉はこの世界では通用しない)を作ったり。雨が欲しいと言うヤツもいた。言ったことに従って俺が何でもするもんだから、おもしろがって利用されていたのだ。気づいた時には要求を止められなくなっていたが、退屈な長旅で、彼らも遊び心を満たすしかなかったのだろう。
広大に続く荒れ地を進んでいたが、なかなか村らしき村が見つからない。日もとっくに暮れており、部隊は体力を消耗しないように、鎧と武器をガシャガシャと鳴らしながら無言で前進していた。そんな中でも、身軽な胡蝶だけは勇ましい声を張り上げた。
「泊まれそうな村はないのかっ! おいサイジョウヨシヒト! お前の術でなんとかならんのかっ!」
「神様じゃあるまいし。少しは黙って自分の足で歩けよ」
「なんだとっ!? 私に向かってその口の利き方はなんだっ!」
「俺に頼めば何でも出来ると思って! 族長なんだから我慢しろよっ!!!!」
忽ち平手打ちが飛んで来て、首を大きく左に振られた。月夜にピシャーンという痛ましい音が響く。今はそんなことしてる場合じゃなかろうが、と思う気持ちが蓄積された疲労と混じり合って、腹の底から怒りがじわじわ込み上げてきた。
「胡蝶おめぇ……」
胡蝶はたった今暴力を喰らわせたた相手なんて眼中にないかのように俺を透かして遠くを見た。
「おい、向こうに村が見えるぞ! 皆の者、もうしばしの辛抱だ」
部隊の男どもは「おお」と声を上げて足を幾分速めた。スルーされた俺は、いつもいつも胡蝶のペースに負けている気がして納得がいかなかった。
その2
辿り着いたところは村というよりは街に近く、建物の様子から、文化のだいぶ進展しているところだと窺えた。木造だろうが、奥には都心のビルみたいな建物が建ち並び、手前側には道路を挟んで家々が所狭しと並んでいる。せわしく歩いていく人々の格好は古風なものに感じられたが、顔立ちは現代風だった。細かく刻まれた時間に追われている表情だ。こんな夜だというのにどこもかしこも明かりをつけ、寝静まった家など見あたらない。声をかけようにも誰もが忙しそうに過ぎ去っていく。
「お頭、我々は泊まれそうなところを探して参ります」
胡蝶の護衛の者数名を残し、武人は五、六名ほどのグループに分かれ、散っていった。
「我々も歩いてみるか」
そう言い既に歩き出している胡蝶に、その場に腰を降ろしかけていた俺は声を投げかける。
「おい、ここで待ってた方がいいんじゃないのか?」
胡蝶は行き交う人の流れに踏み出しながら、振り返ってこちらを向いた。
「ならお前が待っていろ」
ちょっとでも足を動かしていないと落ち着かないらしい。護衛の武人達も、俺のことなどお構いなしに、皆頭の向かう場所へと着いていく。大人しく待っていても、このやんちゃ娘は戻ってこない気がした。こんなどこともわらかぬところで置き去りなんて喰らったらたまったもんじゃない。
「待て、俺も行く! もう誰かがここに戻ってきても知らないからなっ!」
「ああうるさいっ! そんなに言うなら遠くまでなど行かぬ! またコイツに指図される……」
唇を尖らせてムスッとしながらぐいぐい進んでいく胡蝶はちっともわかっていない様子だ。だがこの人混みの中、怒鳴るだけ体力の無駄遣いと思ったので、無言でついていく。周りの人達を見ても、何族なのだろうか、慌ただしく擦れ違っていく様子は一様で変化がなかった。
人混みから逃げるように脇道に逸れる。土産物売り場や食堂の後ろを抜けていく。表通りの方からは売り子の快活な客引き声や、値引きの駆け引きをする威勢のいい掛け合い声とが流れてきた。夜独特の沸き立つ雰囲気や笑い声、人熱れなどが、小路にも忍び込んでくる。調理場の裏からはごーっとすごい蒸気が吹き出ている。
「入るぞ」
無思考で着いていった先で、胡蝶が見つけた店に金魚の糞みたいについていく。扉を押し開け、入ってみてすぐその雰囲気の異様さを肌で感じた。
バーだった。店内はオレンジの明かりでやや暗めに照らされ、アンティークな柄の絵画や写真が壁にかけられている。四角いテーブルの上には小さな花を咲かせた茎が二、三本花瓶に生けてあるだけで、室内にはブルースが流れ、もの悲しい感じを演出していた。カウンターの向こうではバーテンダーが黒い衣装を着てグラスを磨いており、どこにでもある、俺の知っているバーに違いはなかった。
店内にはカウンターのテーブルに一人の男がいるだけで、他に客はいなかった。こんなに落ち着けそうな店なのに、寂れた様子はどうしてなんだろう。
「酒ならなんでもいい」
メニューが目の前に立ててあるのにその使い方も知らず、胡蝶は丸椅子に座った。一緒に来ていた武人も慣れない場所に戸惑っていたようだったが、胡蝶に倣って威厳を放ちながら椅子に腰掛けた。でかい男に丸椅子は似合わなすぎた。
ここは俺がきちんと注文してやらんと、と思いメニューを見ると、知らない名前の飲み物もいくつかあった。とりあえず胡蝶にはカルーア・ミルク、男達にはブラック・ルシアン、自分はボストン・クーラーを頼んだ。得意気に注文をすませたら、胡蝶が、
「ちっともわからん。客のわかる名前にしろ」
と騒ぐので恥ずかしさに顔が火照った。
「それはお前が知らないだけだ。静かにしてろよ」
胡蝶はさっきまで俺が眺めていたメニューを取り、穴が開きそうなほど見つめているが、ちっともわからない様子だった。そもそも文字が読めないのである。怒って乱暴にメニューを戻した。
「いやー、すみません」
元いた世界の調子でマスターに謝る。酔うまでに時間がかかる俺は、いつもこんなふうにして店員に頭を下げていた気がする。
「いえいえ、他族の方はたいていこうですよ。それでも店の雰囲気を壊したくないので、そのままの表記にしているのです。こんなにお酒を知っている人に出会ったのはすごく久々ですよ」
このマスターは虫界の中でもだいぶ話が通じる気がして感動した。急にこの世界に紛れ込んだと言ったら相談に乗ってくれるのではないかとまで思ってしまうくらいの優しい口調である。
出された酒を一口飲み干した。喉が潤う。無性に味が心に染みる。
「ところで、ここは何族の街なんですか?」
はじめて飲むのであろう色のついた飲み物を観察したり、味にびっくりしている胡蝶を放っておいて、俺は尋ねた。
「ここはアリ族の街です。皆真面目で一生懸命な族ですよ」
深みはあるがミルクのようなやわらかい口調で、バーテンダーは目尻に穏和な皺を寄せた。街を行き交う虫たちの様子を思い出して感心していると、すぐ隣にいた唯一の客が俺らに話しかけてきた。
「君達は何族?」
答えられずに口ごもってしまった俺の後ろから大村が、
「蝶族だ。遙々山を越え川を越えここまで辿り着いた」
と答えてくれた。
「蝶族かー。珍しいね」
かなり酔っぱらっているらしい彼は、頬を真っ赤にさせながらまたグラスを傾けたが、心なしか楽しそうではない。
「そちらさんは今日は一人で飲みですか?」
「ソチラサン? え、ああ……」
働き盛りの年頃の相手はグラスをコースターに置き、体の正面をこちらにきちんと向けてから、礼儀正しく挨拶する。
「俺の名前は蟻憲だ」
手を差し出されたので思わずぺこりと頭を下げた。
「西条、義人と言います。西条と呼んで下さい」
胡蝶は何も言わなかった。酒に夢中でそれどころではなかったのだ。男どもも名乗らなかった。それでも蟻憲は満足そうだった。
「彼女が口にしているお酒はねぇ、作り方は違えど美容健康薬の原料と成分が非常に似ているんだよ。希少な美健薬を三百七十六倍に薄めて乳素を適量加え、百八十日間陽の当たるところにおいておけば、薬内のある物質が溶け出してうまく発酵し、冷やすとちょうどそれとよく似た品質になる。逆に言えば、美容と健康にいいんだね、そのお酒は」
他の蝶に混じり、思わずほぉを感嘆の声を漏らした。飲んでいる当の本人は、美容だの健康だの言われてもちびりとも気に留める様子はない。
「そんなこと初めて聞いたな」
グラスを傾けると氷がカラリと涼しげな音を立て、喉の奥に甘酸っぱさを運んだ。口元にパチパチと炭酸が心地よく弾ける。
「若い頃は製薬会社の研究員をしてたんだ」
蟻憲が笑えば俺の常識はバケツをひっくり返したみたいにリセットされ、彼の言葉が新常識を作っていく。違和感なく自然と納得してしまうのは、酒のせいというだけでもなさそうだ。
「市販の飲み物から食物、香水に至るまであらゆる種類の成分と成分量、何万通りもの組み合わせの結果などは頭に叩き込まれたから。何万とある薬の成分と作り方は、生涯頭から抜け落ちることはないよ」
勉強のできる方でもなかった俺は、素直に感心すること以上に何もできなかった。蝶族の武人など既に論外である。蟻憲は唯一耳を傾けている俺の表情を見、理解の届く範囲をさぐりながら、優しく話を進めていった。
彼は博識で色んなことを教えてくれた。自分から得意気に語って聞かせるようなことはしなかったが、代々有名な会社や学者としての功績を挙げている名家の出らしかった。蟻憲自身も幼い頃から勉学を怠ることなく知識を育んでいき、わずか十六にして有名な製薬会社の特殊研究員として採用された。熱心な研究の成果は学会からも幅広く支持を受け、二十二にもなればその分野で知らない者はいない程の有名な研究者となった。それでも努力は怠ることなく、設備や施設の整った会社を新しく設立し、そこで長く新薬の開発に取り組んだそうだ。そんな立派な業績を上げているにも関わらず鼻にかける様子は一切なく、話せば話す程謙虚で真面目な性格だということが伝わってきて、こういう人間も世の中にはいるもんだと感じた。
話が落ち着いてきたところで、俺は自らの目的を思い出して話題を振る。
「ところで、蟻族の族長はいませんか? 直接族長に会って話がしたいんです」
蟻憲はかなり酔っていて呂律も回らない口で、「ああ、知ってるさ知ってる」と言った。
「どこにいます?」
彼はぶつぶつ何か呟いてから、店内キョロキョロして、そして俯いた。顔を落としてからもしばらくぶつぶつと独り言を言っていた。覗き込んで再度問いかけてみたが、もう目もうつろで、ほとんど意識が残っていないようだった。話しかけているうちに、なんだか頭のおかしくなった人を目の前にしているようで、だんだん怖くなってきた。
マスターが俺らの会話を聞いているのか聞いていないのか全くわからない様子でグラスを磨いている。
先ほどまで目に飛び込んできた活気ある街の様子からは切り離されたようなこの店は、まるで孤立した限界集落のように、世間とは無関係の流れを生きる。店内は温かく、心地よく、時を失くしたような、侘びしい世界。胸の中に蝋燭が幻想的に揺れる。
「知ってる、知ってる……知ってる……」
気の毒な気持ちを誘う空っぽな声を聞いていた。小さな店に満ちるBGMは、古風な外国の曲調だったが、終始英語の入らない完璧な日本語でしみじみと哀愁をこぼしていた。蟻憲が持っていたグラスは横に倒れ、残りの酒がちょろちょろとテーブルを這って端からこぼれた。細い滝を見つめて、蟻憲は「知ってる」を繰り返していた。最後の酒は彼の膝を掠め、力尽きたように床へ逃げていく。蟻憲の「知ってる」もまた、オルゴールのように次第にゆっくり、パワーを失っていって、終いには余韻を残したまま流れなくなった。
その3
その晩は近くの旅館に泊まって、翌日昼近くに目が覚めた。他の客は皆いなくなっていたが、旅館の人達は俺達のためにわざわざ温かい食事を作り、嫌な顔一つせずに対応し、きちんと送り出してくれた。まだ一人としかまともな話はしていないけれど、蟻族の真面目な人柄と、賢く、温かい性格とを理解した俺達は、族長捜しをすることにした。
旅館から出れば、外の街道は昨日と変わらず往来が激しかった。手に鞄を持ったサラリーマンらしき人が、無駄のない歩きで人混みを抜けていく。眼鏡をかけた老齢の婦人も、背筋をシャキッと伸ばして我が道のように直進してゆく。時折店を覗いていく人はちらほら見かけるが、家族づれは見ない。まるで朝の出勤ラッシュのようだ。しかし疲を見せる蟻がいないせいか、何度見てもエネルギー溢れる活動的な街に映る。
「こやつらを見ても、何も思い出さないか?」
胡蝶が俺の脇を肘でつついた。
「何も……」
「だろうな。お前にあんな忙しそうな生活は無理だ」
これには反抗しておきたかった。
「あのな、言っておくけど、俺も東京っていうところで秒刻みのせかせかした都会で生活してたの。お前ら蝶族なんかよりは、蟻族の方が俺に近いって」
自慢げに言い放ったセリフは、胡蝶に見事に打ち破られた。
「トウキョーとはどこだ。ならばそこへ行けばいいではないか。だがお前にはあんな暮らしなど合わぬ。やめておけ」
花がしぼむみたいに高揚した気持ちは縮んでいき、反動で起き上がってきたのは納得という心情だった。
東京という言葉のステイタスに乗っかっていたが、それがなんだったというのだろう。胡蝶達が自分の族に対して持っている誇りとは雲泥の差があった。俺の鼻高には中身がない。たった一言でこんなに簡単に、押し潰されてしまう。
ますます俺は求めたくなる。地面に染み込んでいそうな自らの族の記憶を。大都心に住んでいたということが薄らいでいく。根拠のない雲の上に重ねていた日常、あれは本物だったのだろうか……。
次の日は一日中族長を捜して回った。道行く人に声をかけて教えてもらおうにも、誰からも忙しいと断られてしまった。皆、本当に申し訳なさそうに、丁寧に謝った後すぐに歩いて行ってしまうので、それ以上引き留める余地がなかった。別部隊の者達も、族長のことを聞いて回った結果は同じようだった。
街は一日中賑わっており、店では客の途切れる隙がなかった。深夜の時刻になってもその様子に変化はない。障子を開けて涼しい夜風を取り込みながら、宿の六階の窓からその光景を眺めていた。
「店の人は休む暇もなさそうだな。ずっと営業してるぞ」
同じ部屋に割り当てられた男は、武器の手入れをしながら俺の言葉に応じた。
「昨日見ておれば、夜でも店を閉じているところなどなかった」
物知りの大村が口を開く。
「蟻族は真面目な一族として名高い。ここまでとは思わなんだが、さすが仕事熱心だな」
俺は返事もよそに、人の行き来の上に視線を落としたままだった。
道がさほど広くないことも手伝ってか、街道には溢れんばかりの人だかりだ。もちろん車といった乗り物はこの世界には無いから、全員が徒歩である。そしてその多くが商品や材料の輸送のようだった。にしても、昼も夜も無い世界だ。東京だってこんなにごった返してはいない。人が多いとは言え人混みが出来るのは出勤時など一定の時間だけで、夜更けに至るまで常に人並みが道路を覆い尽くしているわけではないのだ。二日でだいぶ慣れたものの、はじめの頃は俺でも人酔いで気持ち悪かった。悪いがここまで人が多いと、人ではない何か別物が地表を覆い尽くしているかのようだ。その全員が、懸命に仕事をこなすべくせっせと足を運んでいるわけだ。一人くらい手を抜いたって……。いや一人と言わず、何人かサボったってうまくいきそうなものだ。だが誰一人怠けることなく、皆根っから真面目に仕事をする、それが蟻族という種族なのだろう。
「寝るぞ」
灯りが消され横になった。いつ眠りに落ちたんだかわからない。外の賑わいがいつまでも耳の中に流れ、人混みをかき分けるように喧噪の合間を縫って眠りに進んでゆくようだっだ。夜という感じのしないまま、不安定な夢街道をふらふらと歩いていった。
その4
翌日からも俺らは街に散らばり、蟻族の族長を丸五日探した。だが手がかりは掴めなかった。
わかったのは、この街が〝眠らぬ街〟だということだ。街は一日中賑わっており、店など客の途切れる隙がなかった。どんなに小さな店でも夫婦など複数で経営しているため、交代制で働いて、店を閉めることはない。休業日というものはないらしい。だから入り口に「営業時間」などという表記は一切存在しない。ここまでだと、そんなに必死に働いて何になるんだろうかという疑問が沸いてくる。
人捜しに疲れた俺は街を離れ、何もない草原の大きな岩に座っていた。どうもあの街にいると落ち着かない。
だがこれまで訪れてきた族の中では、最も自分に近い種族なのではないかと思い始めていた。時間と仕事に追われる感覚、酔うほどの人波、立ち並ぶ箱形の職場や店舗。パソコンなどがあるわけではないから、もちろん俺のいた世界と比べれば文明の差は歴然だけれど、あのままの調子で何十年と発展を続けていけば、そのうち蟻族タワーなるものが街の中央に建ってしまうかもしれない。
わずかに手の内部が震えている気がする。ここが俺のいた族なのか? 近づいてきそうでじらしては去っていく記憶の流星が、何個も大気圏を掠めていく。パラパラ落ちたかけらの中に、蟻族の記憶は残っているのかいないのか、焦る気持ちを風が笑っていく。
もう街に戻らなくては。手がかりを探しているあいつらに失礼だ。だが体が重く、動けない。あそこに戻ることが、今は何かに繋がっているように思えて億劫だ。俺は自分を認めたくないのか? それとも否定されるのが怖いのか? 心を落ち着かせ深呼吸した。
さあ戻ろうと顔を上げた。目の前では巨大な太陽が地平線へと落ちていく。草原を真っ赤に燃やす光景は圧巻見事なのに、急にただならぬ吐き気に襲われて俯いた。目を閉じても嘔吐感が消えない。頭の中には血の海がフラッシュバックする。
辛うじて目を開けると、そこには眠りに就かんとする静かな草木はなく、一面に焼け尽くす業火と、悲鳴を上げて焼かれる大量の虫が悶え苦しんでいた。吹き出す血しぶきは炎と化し、体を焼き焦がしながら黒い煙を天に巻き上げる。ブンブンという無数の羽音が嵐のように耳の中で唸り、地面は黒く醜く染まっていく。何匹もの虫が次々にと口や背中から血を吹き、突如燃え上がる。次に体内から破裂し炎上するのは俺なのか? 逃げ出さなければ巻き込まれてしまうと思う一方、体は金縛りのように固まって動けずに、ひたすら嘔吐と目眩に耐えていた。
「こんなところにいた」
叫び出してしまう寸前、響いた胡蝶の声で幻想から呼び戻された。地獄の光景はまたたくまに消えゆき、気がつけば俺は、平和でのんびりとした夕日を眺めていた。
胡蝶が俺のナイーブな気持ちに無頓着に押し入ってくる気配を感じた。彼女は許可を取ることもせず、地面を蹴ると飛び上がり、勝手に俺の横に腰掛けた。
「自分勝手な行動は慎め」
芯の通った強い声が、いつも俺をこの世界に叩きつける。信じたくないけれども、ここが現実であるという夢みたいな事実を。彼女の瞳は極めつけだ。目力に打たれるのを恐れ、俺は目を合わせなかった。
「どうした? すごい汗じゃないか」
耳元をすっと流れていく汗に、心も冷えゆく思いだ。
「ちょっとな……。この間の殺し合いを思い出して気持ち悪くなってた」
胡蝶は責めるような目で俺を突き刺した。
「お前、本当に男か。そんな調子で、どうやってこの戦乱の世を生き抜いていく気だ」
心臓をえぐく切り刻む朱い大地を思い出して、かきむしられる思いに駆られる。
「なんで戦争なんてするんだ。やめりゃあいいのに。得たいものの何万倍のものを失うだけだぞ。君らは間違ってンだよ」
「お前の族とて、自らの族のために、戦をするであろう? 個人で止められるものではない。族の利益のために、避けて通れないことだ」
俺の族も、戦争をしている……? イエスともノーとも言えない。そもそも俺は自分が何者であるかという記憶をはっきりと持っている訳ではないのだ。なんだか東京にいたということさえ、今や自信を持って断言できない。さっきの幻想にごっそりと記憶の多くを持って行かれたような喪失感だ。
溜め息をついて黙り込んだ俺を胡蝶が覗き込んできたが、いくらコイツに説明したって伝わらないだろうと思った。
「蟻族は、お前と何か関係がありそうか?」
不意に向けられた思いやりのある声の調子に驚いた。
「かすかだけど……。あるような、ないような気がする」
「そうか」
胡蝶は地面を見つめたまま、自分のことのように呟く。
「早く生まれの族へ帰れるといいな。族を失うなど、人生のほとんどを捨てたようなものだからな」
なんとなく雰囲気では感じるものの、そんなにヤバいことなんだろうか。
「やっぱ、族って大事か?」
すると、胡蝶は大きく見開いた目で、当然だ、と俺の顔を見つめた。
「族はいわば、存在の証。我々虫族は個人ではなく、常に集団で生存していくもの。族が絶えさえしなければ、個人なんて族の継続を為すためのつなぎに過ぎぬ。我々は族によって生かされ、族のために生き、族のために死ぬ」
そんな族ならば、俺は要らないと思った。集団のために命を捨てるなど……。奇妙な違和感を覚えるのだから、俺はやっぱり、ここじゃなくてもっと別の、うっすらと記憶が残るあの世界にいたに違いない。ニタリと笑って見せた。
「俺、ちょっと疲れて幻でも見てンだよ。族なんてなくたって、別にいーじゃん」
ぴしゃりと頬をはたかれ、かわいらしい音の割にものすごい激痛が肌を襲った。目から涙が滲み出る。夢だと思っていたいのに、こんなに痛く、目の前の景色鮮やかに、夕刻のにおいまでもが生き生きと鼻に入り込んでくる。一瞬の絶望と、果てしなく続いていく止まらない時間。呆然としてしまう。いつかはたと目覚めるかもしれないという期待は、日に日に薄れて現実の裏側へと逃亡する。
「そんなに簡単に疲れてどうする。甘え事はよせ」
休むこともできない。本当は無性に疲れていて、この変な世界から抜け出ることができずにいるだけかと思いながらも、頭を冷やす時間すら与えられない。
俺がすべきことは――。
振り向けば会社員だった俺がいて、でも今上げる顔の先には、荒々しい戦の舞台がリアルに広がっている。どんな時でも前向きに、がポリシーだった俺でも、さすがに今は後ろを向きたい。過去に戻りたい。常に危険にさらされ、緊張の連続で、思い通りの事を起こす術を使うのにさえパワーがいる。正直、疲れた。
俺なんかよりも胡蝶の方が俺の族を探そうとしてくれているのではないか。俺はそれに乗っかってきただけ。他に何もすべきことがなかったんだ。本当はこの世界を抜け出す術を知りたい。
腫れた部分をさするだけで反抗しない俺に、胡蝶も疑問をもったのだろう。再び顔を覗き込んできたので、目を逸らし続けて横を向いた。
外界との境である塀は蟻族の街全てを覆っているわけではなく、一部は外からも中を覗けるくらいに簡素化された鉄格子が並んでいるだけだった。隙間から、街の端っこが見える。立ち並ぶ建物の一つに、この街にはじめて来たときに訪れた、あのバーがあった。一番目に付くのは、この賑わい溢れる街の中で、静寂を保った異様な雰囲気を漂わせ、人を寄せ付けない気配があったからだろう。単体で見れば別におかしな店ではないのに、周りと比べるとどうしても浮いてしまう。
引き寄せられるようにそのバーに目を凝らした。オシャレなその店にはやっぱり、誰も客が寄りつかない。他の店はあんなに働いて稼いでいるのに、あの店はどうやって生計を立てているのだろう。
胡蝶がさっきの乱暴をもすっかり忘れ、擦り寄るように頬を近づけてきて俺の視線の先を探した。その行動を腹立たしく思い、大きく身を引いて顔を顰めたが、鈍い胡蝶は気がつかない。
「あの店、初日にいったところだ」
仕方なしに切り出してみる。
「わかっている」
「なんか、変だよな」
胡蝶はその問いには答えず、代わりに提案をしてみせる。
「あそこで出会った蟻憲という男、族長を知っていると言っていた。あいつなら教えてくれるのではないか?」
「でも、あそこでまた会えるとは限らないよ」
「店の主人なら何か知ってるかもしれんだろう。可能性のあるものには打ってかかってみるものだ」
ぴょんと岩から飛び降り、胡蝶は店へと歩き出していた。日中あれだけ走り回っているのに、もう次なる目的地へ飛び出していく活力には脱帽だ。
その5
ドアを押し開ける時には微かな緊張に捕らわれた。薄暗い店の中には寒々とした雰囲気が流れている。徐々に目が慣れてきたとき、そこにあったのは無人の空間だった。
「誰もいないのか」
先に来ていた胡蝶は珍しいバーというものへの興味を隠しきれない様子で、店内をじっくり観察して見て回っていた。例の古風な音楽が狭い店を満たしている。
「マスター、いるかー?」
大声を上げると、黒い男が奥から出てきた。
「何やってたんだ? 客が来てもわからないか?」
どうしても問いただす口調で聞いてしまう。
「奥で封詰めをしていたもので……」
「封詰め?」
「この店、バーとしての収入なんて不定期で、それをあてにして生活はできないのです。だから本業は、酒類を箱に詰め、他族のところに運んでおります。その準備をしていたのですよ」
胡蝶は子どもみたいに二人のやりとりを見守っているだけで、俺に任せっきりだ。
「ところで、蟻憲を知りませんか?」
「あの日店を出て以来、見ておりませんよ」
ポツリ雪の粒が地面に吸い付く時みたいに静かに、マスターは呟く。
「そうか」
彼は俯き、以前蟻憲がワインをこぼしたテーブルの辺りをぼんやり眺めていた。やはり何かが胸に引っかかる。胡蝶は疑いを解きほぐそうとしている俺の顔を穴が開きそうなくらい真剣に見つめていた。あと一押し、きっかけの糸口を引っ張り出さなくては。だが違和感の正体がわからず、問いかける言葉を探し倦ねていた。
ふと窓に目をやれば忙しなく流れていく人波。過ぎてゆく時間も、人数も、何倍にも凝縮された密度ある光景が一気に押し寄せて去っていく。その嵐のような勢いはまるでこの店を忘却の彼方に置いていくふうにしか見えないのだ。ガラスを隔ててこちらの世界だけ、時空のゆがみに落ち込んでいる。突くとすれば、その点だった。
「この店は他みたいに汗水垂らして働かなくていいのか?」
率直に尋ねたのは胡蝶だった。
「この一店だけなら、いいのです」
床を這うような低く怪しい声で、マスターは呟く。
「蟻族は本来、娯楽として飲酒をしません。従ってお客様は皆他族の旅客か商人です」
マスターは上目遣いに俺を見遣った。だが他に何を言うでもなく、また奥へと退こうとした。
「ちょっと待てよっ」
「私も仕事を続けなければなりません。休んでいる時間などないのですから」
歩く姿に他の蟻のような焦りは見られなかったものの、少しの無駄もない動きで足を動かし、逃げるように奥へと向かう。悠然と振り返ったはずの後ろ姿にはまるで文字が書いてあるかのように、俺には全てが読み取れた。彼は俺と胡蝶の質問から逃げたのではなく、もっと大きなシステムとも言うべき巨大な影から逃げようとしていたのだ。それはまるで雲のように天から彼らの動向を眺めているため、隠れることはできない。雲が流れる限り、手を休めた蟻は逐一わかってしまうのだ。
すっと頭の中を軽くして何も考えない時間を作った。体内に銀河系のような大きな空間を感じる。星々は中心を軸にして、目に見えない光速で回転していた。すべてはこの宇宙の命と同時に流れてゆく。胡蝶と自分の身体を思い浮かべ、銀河を感じながら息をゆっくり吐いていった。星のスピードが少しずつ、止まっていく。完全に止まった時、この世には俺と胡蝶と、マスターの思考しかなくなっていた。
たった一瞬の出来事だったが、費やす精神力が莫大な時間に思わせる。
「大丈夫、今は誰にも見られていない」
マスターの動きも時計も空気もいっぺんに固まってしまったのを見て、胡蝶は固まった目をぱちくりさせるように驚いた。
「体の動きは止めてあるが、考えたことは俺に伝わるようにしてある。何も隠さずに正直に言ってほしい」
表情を動かせず、呼吸さえ止まった状態だが苦しさは何もなく、思考だけで俺と喋れるということを感じたマスターは、あまりに不可解な状況に失神しかけていた。しかし俺らから見える彼は、奥の部屋に引っ込む直前で時間を止められぴくりとも動けなくなった一匹の蟻に過ぎなかった。体を動かすことを許されていたら、ブルブル震えて話もままならなかったかもしれない。
「仕事を、やらないと……」
頭に浮かべたことが本物のように三人の間で響き、マスターは大変驚いたが、それを体で表現することはできない。
「君らの働きぶりを監視してる奴がいるのか? そいつは思考も含めて全部止まっているから、何を思ってもバレないよ」
マスターは固まったまま、迷っていた。心の動きさえ俺にはわかるようだったが、あえて彼が打ち明けるまで何も言わなかった。
身を以て不思議を体感した彼は、諦めて素直に口を割った。
「おそらく蟻憲はあそこにいきました。中央を走る街道をずっと抜けたところにある森のさらに奥地でございます。この店に来る者は皆、それを覚悟しているのです。だから二度と同じ客の顔を見ることはございません。あるとすれば通りがかりの他族か……、いえ、他族の方も二度はこんなところにいらっしゃいませんから、やはり二度はございません。あなた方がはじめてでございます」
黒い男は、自首して心中を真っ白にするみたいに、勇気と緊張とからか幾分全身を震わせていた(無論体が動いたらの話だが)。信じ切ることは危険だと思いながらも、彼の意識を覗き込み、シャキッとした背筋や訴えかけるような視線から、おそらく本当だろうと結論づけた。もっと言えば、たとえ嘘であったとしても、何らかの情報をきっかけにして調べてみるしか方法がなかったのだ。裏に何かある気はした。でもここまでのヒントを得た俺に、ためらう気持ちは沸かなかった。
少しずつ世界と三人とにかけた金縛りをほどき、時の流れに乗せていく。
「聞いたな? 行くぞ」
「ああ」
胡蝶は返事をするなり慌てて後をついて来る。
「ああ! お待ちを……」
振り向く先には心配そうに見つめるマスターがいる。決意して重い口を押し上げた。
「危険です。きっと正常な者がゆくべき場所ではございません……。私も詳しくは存じませんけれども、死を覚悟した者は大抵ここに足を運びます。その後、先程申しました例の森へと連れていかれるということです。蟻族の中では迷信とも言われておりますけれども、私は真実ではないかと思っております。そこは、〝死の森〟です……」
彼の声は、正常に戻りつつある時間の制止と進行との間で音飛びを起こしながら、切れ切れに聞こえてきた。
胡蝶と顔を見合わせる。彼の話を聞き、なぜか彼女の表情が生き生きとしてきたのを見て、笑いをこらえられなかった。
「俺ら、正常じゃないから、平気だよな?」
ニタリ笑いかけると、胡蝶は目を爛々と輝かせ、嬉しそうに瞬いた。
「サイジョウヨシヒトの言うとおりだ」
既に術を解き切っていた。怖々絞り出す彼の声も、ドアを開けた俺らには届かない。きっと口にしたこともない話だったのだろう。震えたままその場にしゃがみ込んだ。
「ありがとうマスター、とっても助かったよ」
俺の出来る礼と言えば、魔法しかあるまい。通り過ぎてゆく風を集めて包み、ふっと力を込めるだけで簡単にそれができる。
「情報代」
入り口のすぐ傍に、かなりの金額を置いておいた。バーテンダーがびっくりして慌てふためいている様子を見るだけでもおかしくて、いい気分で、大声で笑って走った。
その6
街を抜けると人気のない山林が続いていた。決意して足を踏み出す。
もうすっかり日は落ち、通常であれば暗くて周りがほとんど見えない。俺が人差し指に巨大な炎を乗っけて、辺りを明るく照らしながら進んでいた。
道はなだらかに伸びている。片側から生えた樹木はもう片側から生えた樹木と固く手を繋ぐようにアーチを作り、一本道を分厚く覆っている。意識して声を押し出していないと、声帯ごと盗み取られてしまいそうな奇っ怪な気配だ。俺と胡蝶の足音以外、物音一つしない。まるで時間という生き物がここで一休みしているような、静かな森だ。
同じ景色が闇をなぞって永遠を語り、時を吸い取って枯らした。かつて経験したことのない異様な雰囲気は風を殺し、地を封じ、陽を失していた。代わりに置かれた静寂と、恐怖と、混沌とが、この森の秩序を形作っている。
ひゅうと何かが脇を通り過ぎていく気がした。風ではない。どちらかと言えば温度に近い。かすかな熱を持った何かを、生き物だと感じた俺は身震いした。
体をさらに強張らせたのは、来てはならないという威圧感だった。何がこんなに俺を震え上がらせるのだろう。ただの森のはずなのに、恐ろしいものに近づいていっているという予感が鎖のように俺を縛り上げていく。
横をどしどしと歩いていく胡蝶がいなければ、俺は逃げ帰っていたかもしれない。胡蝶は怖くないのだろうか。いくら度胸のある武人とは言え、彼女は女であることを除いても、二十歳にも満たない。顔を近くで見るとよくわかる。化粧を塗るのがもったいないくらいの、卵みたいな凹凸のない素肌。
彼女の前で不甲斐ないところを見せられないという一心で足を押し出した。山の中腹を越えたあたりから、奥へ進むにつれて次第に足を運ぶのが苦痛になってきた。というのは疲れた訳ではなく、何かが俺らの侵入を拒むように押しつけてくるのだ。体に直接作用するのではなく、目に見えない部分でその謎のエネルギーは働いているようだ。ずっと心を押し返されるような不快な感じを受け続けている。何度も圧迫される胸元を押さえたが、胡蝶は俺ほどその力が強いものではないらしく、時々進みにくくなった苛立ちを顕わにするのみだった。
とうとうその力が顕著になったのを実感したとき、俺らはある場所の入り口にいた。着いた瞬間にゾッと寒気が全身を凍り付かせた。一つ一つ毛穴の奥から、嫌悪感が滲み出て俺をそこから遠ざけるように暴れる。さすがに俺は立ち止まった。
マスターが言っていた〝死の森〟は大きく呼吸をした。進もうとしていた先から爆風が吹いてきたのである。身をかがめてなんとかやり過ごすと、今度は鼻がひん曲がりそうな猛烈な悪臭に襲われていた。これにはもう太刀打ちできない。目を閉じ、膝を落とし、口を手で覆ったままその場に崩れ落ちた。とんでもない嘔吐の感が込み上げたと思うと、気持ち悪さのあまり全身の感覚が自分のものでなくなったかと思うほどの違和感でのたうち回りそうになる。胡蝶は目をギュッと閉じて頭を抱えていた。全身が蒸発して悪霊になってしまいそうな気分が心臓をドロドロと蠢いた。
「なんとかしろっ!」
胡蝶の嘆願に、残りわずかの息をしている脳細胞だけで術をめぐらした。強烈な感覚を辿っていき、ゆきついた感覚を遮断した。正体は悪臭であった。ひとまずにおいは感じなくなり、それだけで二人ともかなり楽になった。
「嗅覚を消した。これでまずは大丈夫だろう」
嗅覚という言葉の意味を知らない胡蝶はなんのこっちゃの顔をしてから、助けてもらって当然だと言わんばかりに数歩歩き、「いくぞ」と言った。腹の底でイラッとしたのを感じたけれども、感情を顕わにしてしまえば術の方の力が弱まり、またあの悪臭に襲われそうな気がした俺は、慌てて自らを落ち着けた。
その7
胡蝶の背後に広がる場所は、一切の光の入って来ない、邪悪な気配漂うおどろおどろしい暗闇だった。進もうとする体は恐怖におののき、意志だけでは全身の震えを止められない。一歩進むのに必要な勇気は、宇宙へ飛び立つ決意にも勝る。踏み出すたびにくしゃりと砕ける枯れ葉の叫び声は、一つ一つの世界が死にゆく様を呈していた。時間をかけ、なんとか奥へ進んでいく。俺の灯りに照らされる森は一部分だけギラッと不気味に光ったりして、心臓がいくつあっても足りないくらいの恐ろしさだ。風は彷徨うのみで吹くことはなく、同じ場所に亡霊のように淀んでいた。体温が吸い取られてゆくほどの冷ややかな風にぶつかるたびに、背筋を何かが擦り上げる恐怖に襲われた。
しかしさっきのとんでもない腐乱臭、なんだったんだろう。
森は長くは続かなかった。すぐに行き止まりに辿り着いた。袋小路は狭くこぢんまりとしていて、奥まで難なく見渡せる。そこを俺が運んでいた灯りがいっぱいに照らし出したもんだから、浮かび上がった恐ろしい光景に、目を背けることさえも忘れて直視してしまった。
何十、何百もの腐れ果てた物体が積み上げられて縁に寄せられていた。奥にいくほどそれは形を失い、腐食してボロボロに砕けているが、手前のそれはなんとなく輪郭がまだ残っている。しかし見るべきものではなかった。腐れているのは人の体だ。目の周りが赤く爛れ、隙間の見える穴から眼球が飛び出してこちらを向いている。手は骨ごと腐れて箸ほどの太さもなく、胴体は錆びた鉄格子のようになり、骨の中で臓器が隅に寄って真っ黒く凋んでいる。緑に変色した髪の毛は、生えているもの生えていないもの様々あったが、長く縮れているのは女性のものだろう。びっしりと苔が生えてゴワゴワになっている。
「蟻塚だ……」
「ありづかじゃあないのか?」
胡蝶は目に飛び込んでくる気味の悪い世界に眉を顰めながら、
「違う! ありつかだ!」
と叫んだ。違いに特別な意味があったのかは知らないが、塚と言えば墓のことであり、それに蟻がついているということは、言葉の通り、目の前の気持ち悪い、地獄の光景を意味しているというのか。
重なり合って体の所々が他の遺体の開いた穴から飛び出しているのを見ると、生命を失っているとは言え、なんとも悲惨な光景だと思う。黒ずんで腐乱しきった死骸よりは、手前にいる何年か前には元気にあの街で働いていたであろう姿が辛うじて残っているゾンビの方が、生々しく腐敗している分、恐ろしさが勝った。瞼も禿げて覆うものを失った目ン玉がこちらに虚無の視点を投げかけて笑いもせず、動かない。今にも立ち上がりそうな外形を宿した屍は、死んでいるとも、生きているとも言えない空間に折り重なっている気がした。
恐ろしさの反面、目は怖いもの見たさで傍にいるものを恐る恐るなぞっていき、端の目立たないところに、発見した。瞼を閉じて頬は黒い蔦を生やし始めた、心優しき誠実な男を。
「蟻憲!」
どこだ、と胡蝶も近くを探し始めた。すぐ動かなくなったところを見ると、彼女も発見けたらしい。俺達はゆっくりと近寄った。
削がれたように細くなった指先、腐乱が始まって陥没している鳩尾、青紫に染まった両足、一枚の紙のようになった耳、砕けた歯。どうしてもあの時優しく話をしてくれていた一人の友人だと思いたくなかった。胸が抉られる思いだ。一体、なぜこんなことに……。
胡蝶が何かに気づいたらしく、真っ直ぐ前を向きながら一歩ずつ奥へと歩き出した。俺は動かないで胡蝶を見守っていた。彼女は行き止まりにある古木を見上げた。その時。
「他族の者か。よくこんなところまで来たな」
き、木が喋った――!?
胡蝶は動じもせず答える。
「この男が持っている術でな。これがなくては入ってこられなかった」
何者かの瞳らしきものが俺に向けられたのを感じ、ゾッと鳥肌が立った。
「ここに生きている者が来たのは何百年ぶりか。はたまた初めてやもしれぬ」
嗄れていてどれくらい低いのかすらわからない、地を揺るがすような音は、地獄の底から迫り上げてくるように震え、死の森全体に飛び散った。生きた胡蝶の声が辺りにこだまするのに対し、相手の声は腐れ果て、死体にぶつかると粉々に砕けた。
「ここは何なんだ?」
しかしいくら答えを待っても、カスカスした呼吸とも取れる風切り音が乱れ飛んでいるのが聞こえるだけだった。
「なんで蟻憲を殺したっ!」
声を荒げて問いただす胡蝶に、今度は声も答える。
「殺したのではない。そいつが自ら死を選んだのだ」
「蟻憲は一週間前、我々と酒を酌み交わしたばっかりだ。死を選んでなど……」
胡蝶の言葉など聞こえないかのように無視して、声は言葉を続けていた。
「仕事をせず、飲み屋に赴く行為が死を呼び寄せることそのものだ」
胡蝶が口を挟もうにも、声はロボットのように先を続けている。
「蟻族は働いてこそ蟻族の体を為すもの。休む間を惜しんで働き続けなければならない。四時間の睡眠と半時間の食事の時以外は、全ての意欲を仕事に向けていなければならぬのだ。仕事中の余計な考え事など許されぬ。休む者など問答無用で罰するべきである。すべては族のますますの発展と永久の存続のためだ。怠惰な性のある者は根絶し、すべての血を真面目で誠実な純血で次代へ受け継いでゆくことこそが奴らに与えられた使命なのだ。この場所で行っているのは、濁った血をそぎ落としてゆくこと。いわばゴミ捨て場である。手前に転がっている者どもなど、力を尽くして生きてゆくべき人生についてゆくことができず、腐れきったクズどもだ。すべからく排除し、精一杯生きている者達の目から遠ざけなければなるまい」
圧倒されて物も言えない。
「働かざる者、生きるべからざるなり」
声はやっと途切れた。森がせせら笑い、俺達を恐怖の中心に閉じこめた。
頭の中にはむくむくと、こいつに投げかけてやりたい言葉が込み上がる。
「蟻憲は真面目で誠実で優しくて賢くて、働くことに熱心なヤツだった。だがあまりの過労で力を失ってしまったんだ。生きてりゃ誰だって疲れることはある。それを一瞬の休憩すら与えないで、休んだヤツをそうやって殺していくなんて……。本当に優れたヤツを失ってくだけだぞ! 他のヤツだって休みもしないで終日働きづめで、それを何十年も繰り返していくしかない人生なんて、どっかで押し潰されるだけだ。能率のこと考えたら少しは休ませてやれよ! 族のことを考えてやってるんなら、もっと大事にしろ!!」
今自分が喋っている相手は本当に木なのか。ぴくりとも動かない木の洞が不気味な顔立ちを作っているように見えるから錯覚しているだけかもしれないが、他に誰の姿も見えないのだ。
「連日働ける力のない者は生きておらなくて結構だ。代わりならいくらでもいる。能力の足りない者はどんどん排除し、新しい者の実力を試していくことの方が遥かに効率的だ」
思いやりのかけらも感じられない言葉を受けて、胡蝶と二人、立ちつくしてしまう。
ここで寝ている数多くの蟻達だって、かつては蟻憲のように、皆真面目に働いていたに違いない。会社のトップに立って引っ張ってきた優秀な蟻もあたろう。てきぱきと作業をこなし、仕事の能率をぐんぐん上げていった蟻もいたに違いない。この街に不真面目なヤツなんていないのだ。
「お前が、蟻憲をここに呼んだのか?」
手の内に沸く力を確かめる。臭気を封じる術を使っているため全力で使うことはできないが、大抵の術なら頭の中だけで発動できる。悪霊の憑依した古木を見据えた。
「……ここにいるゴミどもはすべて、自らの足でここに赴いた」
「自分で死にいくわけがないだろッ!?」
いつの間に短気になったんだか頭にカッと血が上った俺は、勢いに任せて気を最高まで高めた。
「お主にはわからぬのか」
吐息のように漏れた掠れ風にふっと気が抜けた。体がシュンと寒気を帯びる。俺は胡蝶を見た。胡蝶は入ってきた時と変わらない強気の構えで立っている。
一瞬目の前に、映画のように残像が流れた。
蟻憲が操られたように、死の森へと入っていく。
いや、操られたというよりも、彼の体が自分の命令に従うように、素直に歩いていくみたいだ。
それが蟻憲の意思なのか……?
意味を理解できず、高めた気のやり場に困っていた。硬直した空気を破ったのは、怖じ気無き蝶族の族長だった。
「それが蟻族なんだろうからな。古来から脈々と受け継がれてきたものを他族の者に覆す権利などないであろう。ここまで入ってきてしまって、失礼をした。我々は族長を捜していたのだ。お主、知らぬか?」
胡蝶の言葉が終わる前に、俺は振り返って死骸の見つめる細い道を歩き出していた。古木は質問に答えているのか、重たいザワザワという音以外何も聞こえてこない。
こんなところ俺の族じゃあない。仮にそうだったとしても、俺なんてものの数分でこの森に連れて来られる運命だろう。
「おい、サイジョウヨシヒト!」
後ろから彼女の声が飛んでくる。駆け足が近づいてきたが振り向かなかった。無言のまま歩き続けていると、あっという間に元いた入り口に出た。あまりの早さに振り返ると胡蝶がいて、その後ろにはちょっと薄暗いだけの静かな森が佇んでいるだけだった。
由来は無し。蟻の格好いい古称が探せなかった……。(探せばちゃんとあるのかも)
蟻憲(ぎけん):真面目人間をアリっぽく名前にしてみただけ。「ありのり」とかにはしなかった。音読み系の方がアリ系の名前っぽいな、っていうのとイメージだけでつけた。大和言葉要勉強だな。(不勉強が変わっていない。)
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