[無料]自作長編小説 『戦乱虫想』 第2章 蛾族

アイキャッチ(戦乱虫想2) 長編小説
筆者
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執筆大好き桃花です。

大昔に書いた自作小説の第2章です。

拙いですが、温かな目で見守っていただけると幸いです。

【注意事項】

著作権の都合上、無断での商用使用や販売などお控えください。リンク掲載や権利者明記の上での拡散等はお断り無しでOKです。個人で活動していますので、何か少しでも感じられた方は応援や拡散等していただけるととても励みになります。

本作は、2012年に新人賞に応募(落選)した自作長編小説を一部修正したものです。つたなく恥ずかしい限りですが、自分の成長過程としての遍歴を綴る、というブログの理念から勇気を出して公開します。

『戦乱虫想(せんらんむそう)』あらすじ

俺が目を覚ますと、虫達が闘いを繰り広げる戦乱の世にいた。どうやったら現世に戻れるか模索しながら、自分の〝族〟を探す旅に出る物語。エンタメ系。

<<最初(第1章)

第2章:蛾族

その1

 目が覚めたのは、午前中の早い時刻だった。

 茣蓙ござの敷物の上にあさで作られた掛け布団は、あっても無いような貧相さであった。ゴワゴワとした肌触りで覚醒していく記憶というものは心地いいものではなかった。目に飛び込んでくる、ボロ布の巻かれた腕。動かすとまだ痛む。目を閉じれば、ドックンドックンと体中の血の巡りがやけに大きく聞こえた。やっぱり俺が昨晩見てきたことは、記憶違いや夢ではないのか。

 大村は俺を部屋に案内した後、連れてきた数人の部下とともにしばらく話をしていった。この場所は初めてだろうからと、建物の位置や注意すべきことをおおまかに教えてくれた。どこに行くにも部屋の外にいる見張り役と行動をともにしなければならないとかで、俺は用を足す以外は部屋を出ないことを決意した。蝶族の歴史みたいな話もされたが、興味がない者にとってはただの昔話にしか感じられなかった。長い長い彼の話から感じ取れたのは、蝶族の者は皆族長をしたい身をささげる覚悟で付き従っていくということだった。いずれそういう世界に俺は迷い込んでしまったということだ。

 彼らが帰ってからすぐに寝床に入ったものの、無論寝付けるはずもなく、目を閉じて長い間思いを巡らせていた。いつ眠りに落ちたのかわからない。

 出発は夕方と聞いていたから与えられた部屋でゆっくりしていたら、「入るぞ」という乱暴な声とともに、返事を待たずして胡蝶こちょうが押し入ってきた。失礼のあまり拍子抜けして、返す言葉も失ってしまう。何の用事かと思えば、戦の心得と抜かして一方的に決まり事を言い上げ、かすだけ急かして部屋を出ていった。要は自分の感情を自分で落ち着かせることのできないガキなのだ。大村から渡された物を忘れぬように準備して外に出ると、同じく胡蝶に急き立てられたと思われる武人達が整列して待っていた。嫌な顔一つせずに待ってられるとはなんと立派な部下だろう。全員が揃うと、胡蝶の短気な言葉をうやうやしく授かり、夕日が見え始めるよりだいぶ早い時刻に優秀な部隊は出発した。

 道を知っているのであろう慣れた足取りに着いていき、翌日の昼に着いたところは、なるほど一つの集落になっている。だが人っ子一人見当たらない。せっかく急いでやってきたのというのに、タイミングが合わなかったのだろうか? どうもうまく事が進まないことに溜め息がれる。さてどうするんだ新族長、と横を向くと、胡蝶はすっと息を吸ったかと思えば、耳を(つんざ)くようなバカでかい声で村中に叫んだ。

卑比瑠(ひひる)ーッ!!!! いるだろうー?」

頭がキンキンして思わず怒声を上げた。

「バカヤロウ耳が壊れるっ!」

「なんだと?」

 静かな村だったが、サイレンのようにとどろく胡蝶の声を聞き、一人の大柄な男が姿を現した。

「久しぶりだな」

 胡蝶が見上げる大男は武骨ぶこつではあったが、筋肉の一部一部が全て闘いに備えて作り上げられた軍艦のようななり・・をしており、男の俺でも感心する程たくましい体つきをしていた。だが顔には三日ほどの無精髭ぶしょうひげが生えていて清潔感はまるでなく、ゴツゴツした手もなんだかあかがついていそうで、握手を求められたらどうしようかと考えていた。

「なんだ、胡蝶か。昼間は寝ていることを知っておろう。食事と睡眠だけが楽しみなんだから、寝かしといてくれ」

 岩肌を削るようないかつい声だ。だっぽり二重の大きな目、いかりのように底に広がった鼻、箱形のでかい顔にあごだけ見事に割れており、髪は振り乱して構っていない。

「紹介しよう。コイツは卑比瑠。見てくれはひどいが、頼りになるヤツだ」

「よく言うゼ、このお(かしら)

 卑比瑠は寝起きだった顔を一転させて大声で笑い、すっかり目が冴えた様子だ。

「今他の者は皆寝ているから、俺の家にまず来い」

 既に何人かは目覚めてしまったらしく、家の(すだれ)から顔を覗かせ、こちらをじっと見ていた。それに気づいた胡蝶が卑比瑠を睨み付ける。

「バカ者!! お前のバカうるさい音で、住人が何人か起きてしまったではないか!」

 最初にバカな声で叫んだのはどっちだ、と思ったのを心中にとどめ、俺は村を観察するべく遠くを見つめた。本当に平凡で何もない、あばら屋ばかりの村だ。そのうちの一つへ、周りの視線も集めながら連れていかれる。

「とにかくまず寝かせろ。用件は夜だ」

 家に入るなり卑比瑠はそう言い放ってドカドカと奥に引っ込み、俺らをほったらかしにして消えた。彼の入っていった部屋を覗き見ると、大男は茣蓙を敷き、既にいびきをかいて寝入っていた。

「まぁお前らも好きに使え。蛾族は夜でないとまともに話ができん」

他人(ひと)の家だというのに胡蝶は我が家のようにくつろいで、勝手に戸棚を開けてお茶を淹れだした。じゃあなんであんなに出発を急かしたんだよ、と苛立ちは募るばかり。卑比瑠のインパクトにも負けないこの女の気逞きだくましさと身勝手さに、呆れた目で眺める始末だった。

その2

 不規則な物音で目覚めた。胡座あぐらをかいたまま眠り込んでしまったようだ。他に眠っている者はおらず、皆気儘きままに動き回ったり休息を楽しんだりしている。簾を指で押し上げると、見事に夜だ。他の家々にも煌々こうこうと明かりがついている。

 卑比瑠があちこち歩き回るたびに、床板がドンドンギイギイ鳴り響く。慣れない手つきで食卓を整えようとしているようだ。奥から包丁の規則正しい音も聞こえてくる。がさつな大男は頭をぶつけそうにしながら仕切り戸をくぐり、テーブルの上に食事を並べてゆく。両手に小さな皿を持って立ち止まり、奥の方へ「おふくろー」と呼びかけた。包丁の音がいったん鳴り止むと、卑比瑠よりもずっと小柄なおばさんがやってきて、テキパキと指図をしてから奥へ退く。指示を受けた卑比瑠は変わらず不器用な手つきで食卓を並べていくが、食器同士をぶつけたり肘を醤油差しに引っかけたりして、見ていて危なっかしいったらありゃしない。盛大なご馳走も彼の前では、小人の食事みたいに見える。

「して、今日はそんなに立派な部隊を引き連れて、どうした?」

 顎を異様な程に大きく上下させて咀嚼そしゃくしながら、茶碗の中にあるご飯から目を離すことなく卑比瑠は尋ねた。彼の手の中にある茶碗は、巨大などんぶりだった。胡蝶はスクッと背筋を伸ばすと、俺の背中を思いっきり叩きつけた。

「コイツの族を探していてな」

 鋼鉄のバットで力一杯殴りつけられたような痛みが背中中せなかじゅうを襲った。本当に腕だけで(はた)いたのかと思われる程の怪力だ。しばらく激痛に耐えていた。

「……っつの、胡蝶ッ!!」

 拳を振り上げる仕草をしても、胡蝶は知らん顔だ。本当に(しやく)に触る。だが怒りに任せてぶっ飛ばすこともできない状況に更なる苛立ちが積み重なる。

「この乱暴女、なんなんだよ?」

 仲の良さそうな卑比瑠をも、勢い睨み上げるようになる。原始人みたいな濃い顔が俺に向けられた。

「胡蝶は昔から気性が激しく勇ましい性格なのだ。初めて会った時かて俺みたいな大男を前にしても、恐がりもしなかった。俺は男勝りな女は好きだが」

 荒々しくぎこちないが、愛娘まなむすめを見守る熱い父親のような瞳を受けても、胡蝶は平然としている。

「蝶族とは遠い親戚のようなものだ。昔先祖が枝分かれした族同士らしい。たまに尋ねて来ては様子を確認したり、他族に狙われた時は援護に来て貰ったり、互いに持ちつ持たれつの関係だ。まぁ、こんなやかましい娘がしょっちゅう来たんでは、うるさくてかなわんがな」

 卑比瑠は「ガッハッハ」とあばら屋を揺るがして笑い、胡蝶が「なんだと?」と睨みをきかす。

「このおかたは、その……、頭をぶつけた拍子に自分が何族だったのかを忘れてしまったのです。まずは私ども蝶族とかねてより親交のある蛾族様が何かご存じではないかと、うかがった次第でございます」

 薄紅うすべにが俺のことを気遣いながら親身になって説明すると、卑比瑠も慌てて座り直し、礼儀正しく聞いた。薄紅は本当に心優しくて配慮ができて、ずっとそばにいたいと思わせる女だ。

「そうなのか。それは誠に大変だな」

 卑比瑠は深刻そうな顔をこしらえた。相手の感情を引っ張り込むのも、薄紅の優しいオーラの力である。しかし卑比瑠の方には、振り絞るだけの頭脳などなさそうだ。

「とにかく、蛾族の中に居たら思い出すかもしれん。しばらく滞在させてくれ」

 薄紅に対し、配慮のカケラも感じられない胡蝶の提案。卑比瑠は寛大な笑いですべてを包容した。

「がはははは! 何もないが、ゆっくりしていってくれ!」

その3

 食事を取り終えると外で待機していた武人達に食卓をあけ、俺達は村へ出た。

 胡蝶を先頭に、十名程の武人と薄紅、俺がぷらぷらと列をなした。行き違う蛾たちは皆胡蝶を見知っている様子で、挨拶をしてきた。

 大きな通りに出ると、胡蝶は武人達に戻ってよいと告げた。彼らは言われた通り、元来た道を戻り始めた。俺も胡蝶から解放されると喜んで振り返ろうとしたら、ガシッと腕を掴まれて、「お前の族を探しに出てきてやってるんだ」と引きずられてしまった。

 家と家との間の狭い道を抜けていると、どこからか風の声が聞こえてくるようだった。一度気にし始めると、些細なことでも気になってしかたない。

「なんか物音がしないか?」

シュシュッと時折風が走り抜けるような音は、次第に近づいて来る気がした。

「別に」

 胡蝶はよく知っている族の町並みを歩くのに恐怖など感じる訳もないだろうが、俺にとっては全てが初めてなのだから、不気味な物音には心臓が高鳴って仕方なかった。何かあったとき、自分の身は自分で守らなければならない。

 家の角を曲がった胡蝶が立ち止まり、足下を見た。彼女の視線の先を追うと、家の陰に隠れて、小さな子どもがうずくまって泣いていた。先程の奇怪な音はこれだったのだ。目をこすって声を殺しながらも、しゃくり上げるたびに風が吹き抜けるような悲しい鳴き声がした。俺はしゃがみ込んで彼の指を目から離そうと、静かに引っ張った。

「どうした?」

 涙に潤んだつぶらな瞳が恐る恐るこちらを向いた時、上からきつい声が飛んできた。

「オイ! 男の癖にメソメソするなっ!」

 男の子はビクッと肩を強張こわばらせて、またうるうると涙を浮かべた。呆れの次にじわじわと込み上げてきた怒りのままに立ち上がり、胡蝶を睨んだ。

「泣いてる子に怒鳴ってどーすんだよ!」

 ドッと声が溢れ出し、男の子は天を向いてわんわん泣き出した。慌てて慰めはじめた俺の言葉を無視して、胡蝶は自分の信念だけを語る。

「泣いて何になる! 男だったらこんなところでコソコソ泣かないで、明るいところに出てもっと有意義なことをしろ。お前くらいの年なら、そろそろ武人になる訓練をせねばならんだろう。他の子ども達は皆、戦に興味を持って、棒切れを振り回して練習してるぞ。子どもの頃からそんなに泣いてばかりではろくな大人にならん。最も、私は弱い男が大ッキライだ!!」

 男の子はますます声を張り上げ、これ以上出せないというボリュームで滅茶苦茶に泣きじゃくった。近くにいた俺は耳が破れそうだったが、最近イライラしがちな精神も鎮めつつ、男の子の頭を撫でて顔を覗き込んだ。

「何があったのか言ってみな?」

 わあわあという声で一切聞こえないようだ。めげずに繰り返し聞いても効果はなし。あまりのうるささに感情もたかぶってくる。

「何があったんだかって言ってンだよっ!!」

 穏やかに接していた俺が急に声を荒げたもんだから、男の子はびっくりして一瞬泣きやんだ。だがまたみるみるうちに涙をため、わーんと一定の音を保って泣き出した。それ以降いくら肩を揺すって尋ねてみても、かたくなにかがみ込んだまま体を動かそうとしなかった。

その4

 卑比瑠のあばら屋に戻るとほっとするのは、薄紅の姿を見て疲れた目が癒されるからだ。卑比瑠の母親の手伝いをしていたのだろう。着物の裾をたくし上げてにっこり微笑む彼女を見たら、家庭が欲しいだなんて思った。こんな優しい奥さんがいるといいのに。

 薄紅は村中歩いてきた俺らの疲労を癒すよう席を設けてくれた。手早い動作でお膳立てを整えていく。沢庵やお総菜、かれいの煮付け、ホタテや玄米などがでてきた。見た目はパッとしないが、何しろとんでもない量の料理が食卓に並べられたため、まるでお祝いのようだ。胡蝶と同じグループは真っ先に食事にありつける。俺らは一番目に箸を持った。

「なあ、大通りを真っ直ぐ東に向かって物見やぐらのところで左に折れた細道の奥にいる男の子、知らないか?」

 胡蝶の話では卑比瑠に聞けば村で知らないことはないというから尋ねてみたら、その通りだった。

「ああ、尺蠖せっかく()だろう? ヤツは毎日泣いて日を明かしているぞ」

「毎日!?」

 そうなると俺の彼に対する目も変わってくる。フン、と胡蝶が気に喰わなそうに鼻を鳴らした。薄紅が「どうして」と先を促す。

「ヤツは村のガキどもの餌食になっているのだ。俺も気がつけば叱ってはいるのだが、常に監視する訳にもいかんからな。俺が見ていないところで隠れてちょっかい出しているんだろう」

「要するに、いじめられっこか」

「そうだ」

 皆黙り込んで、それそれの思いをなぞっていた。胡蝶にとってはどうでもいい話だっただろうし、薄紅は眉をひそませて気の毒がっていたし、順番が回ってきたため本日一番目に食事にありつけた武人達は聞いているふりをしてちっとも聞いていなかったし、俺は俺なりに、カッコつけて悪ガキどもにバシッと言い聞かせてやりたいと考えていた。

その5

 卑比瑠の言葉が気になっていたため、昨日行ったところを目指して歩いていた。今日は薄紅と一緒だ。せっかちな胡蝶とでは、またあの子の涙の勢いを増すだけだと考えたからである。

 だが二人きりというのも気恥ずかしいもので。前付き合っていた彼女とかを思い出しながら、おかしくない距離を保ちつつ並んで歩いた。

 薄紅はあまり喋らなかった。俺も何にも話すことなんてなかった。時折出会う蛾には、卑比瑠の言葉通り大きな声で挨拶したら、皆旧友のように親しく挨拶を返してくれた。真夜中に近づく程に村は活気づき、大通りには市場が並んだり人の出入りが多くなった。朝着いた時には人気ひとけのない村だったが、寝静まった家々にはこれほどの人が隠れていたのだ。

 胡蝶と卑比瑠には、出来る限りたくさんの人に会い、多くの場所を訪れるようにと言われていた。胡蝶といる時は助言通り遠くまで足を伸ばすようにしていたが、今日はそれにとらわれず自由に散策していた。

 途中寄り道して店に入ってみた。琥珀こはくや透明な石に穴を開け紐を通しただけのアクセサリーが人気にんきみたいだ。パワーストーンならカラフルで綺麗だが、ここで見かけるものは茶色や黒などといった地味な色合いのものばかりで、店の至る所には「け」と御札が貼ってある。蛾族の人たちを見れば、皆茶色の石を首からいくつもぶら下げていたり、呪術的な雰囲気の物をたくさん身につけていたりした。思い出してみれば卑比瑠も、真ん中に穴が開いただけの平べったい赤い石を首からげていた気がする。着ている衣装はさほど古風ではないものの、縄文時代を思わずにいられなかった。

 三軒目のオシャレな店で、勾玉形のイヤリングを見つけた。俺が気になって観察していると、隣で薄紅も俺に負けないくらいに目をらして見つめていた。欲しいなら買ってやるよ、と言っても、どの店でも薄紅は首を大きく左右に振って申し訳なさそうに断るので、自分が無力になったような残念な気持ちで店を出るのだった。

 店通りもあらかた見て回った後、昨日のところに寄ってみると、やはり男の子は泣いていた。屈み込んでしくしく泣きやまない。昨日は何もわからず声のかけようにも困ったが、原因がわかった今日は、泣き虫な彼に活を入れてやるつもりだった。

 尺蠖を見た途端、薄紅は着物の袖も構わず彼の前にしゃがむと、顔を近づけて声をかけた。

「大丈夫? 顔を上げて?」

 優しく夜に染み渡る声に、尺蠖も泣きやんで薄紅を見た。微笑む柔和な薄紅の表情は、まるで慈愛に満ちた母親のようで、横で見ている俺の胸の奥底に眠る懐かしい場所をくすぐっていった。

「どうしたの?」

 薄紅がゆっくり問いかけると、尺蠖は答えなければという表情をあらわにしたが、返事ができずにモジモジしていた。訳を知りながらも話を引き出そうとする薄紅と、一生懸命伝えようとしているのに言葉に詰まってしまう自分に困惑している尺蠖とを見て、心温まる俺がいた。

 薄紅は彼の目を見つめたり、震える握り拳に目を移したりして、穏やかに待っていた。何度も息を吸っては真剣に話し出そうとしている彼の様子が伝わってきたが、あと一歩という勇気が出せないようだった。

 その晩尺蠖はとうとう話をしなかったが、次に来たときは心を開いてくれるのではないかと思った。夜空に放たれていた、目に見えない強張った気が薄らいでいくのを感じたからである。薄紅が包み込むように尺蠖を見つめながら、固くなっていた彼の心の殻をほぐしていた。尺蠖もそれを子どもながらに感じていて、必死に応えようとしていた。

 夜空を見上げたら、そのやりとりがまるで溶け込んだかのように、やさしく神聖な星空が広がっていた。

その6

 急に夜型に変えたものだからリズムが追いつかない俺を、すっかり目覚めていた胡蝶が騒々しく起こし立てた。頭は少しずつ覚醒していくものの、眠ったままの体は重たくてなかなか動き出そうとしない。そんなちぐはぐな意識と肉体を、待ったなしで無理につなぎ合わせ、胡蝶は両者をはたき起こした。

「起きろ! お前の族を探しにいくぞ!」

 うっすら目を開けた時に差し込んでくる日光でもあればまた違うのだろうが、冷ややかな夜気にご挨拶されれば、また布団をかぶりたくなってしまう。

「何しに行くって言った? 今」

「お前の族! わからんままでいられんだろう。いつまでも寝ぼけてないで、とっとと立て!」

 胡蝶が端を持ち上げるととんでもない力で茣蓙が浮き上がり、上に寝ていた俺は体が宙に跳ね飛ばされた。小柄で腕も細い彼女の馬鹿力に、気を抜いていた俺は見事床に叩き落とされた。極めて残酷な起こされ方で、革命的に目は覚めた。

「族を探す?」

「これから色んな族を周り、お前がどの族の者か突き止める。いつまでも縁故の者がなければ困るだろう。無数に存在する族を巡るのは容易ではない。少しでも早く見つけ出したいと思わんのか?」

「それにしても、なんで胡蝶が俺のために……」

 彼女は焦っているようにさえ見えた。俺の心中を見透かすように、胡蝶はギラリと目を光らせた。

「貴様のためだけに私が動くと思ったか。探している人物がいる。各族を回り、その者を一刻も早く見つけ出さなければならぬ。お前のはついでだ」

 本心を知り納得した一方で、がっかりした自分がいた。

「結局自分のためかよ」

 無理に起こされた苛立ちも相俟(あいま)って口を尖らせると、(つるぎ)(きつさき)みたいな眼光が俺を穿うがった。

「蝶族でない者のために動く気は毛頭ない。勘違いするな。貴様は私からすれば、ただの他族だ」

 種族の壁が二人の間に作った果てしない溝を感じた。どんなに言葉が通じようと、族が違うというそれだけで仲間になることは許されない。突き刺す視線は、彼女の領域(テリトリー)にあるものに危害を加えようものなら、生かしてはおかないという強烈な本能を物語っていた。俺が攻撃されずにいるのは、彼女らを助けたからというよりは、彼女らに必要以上関わらないからだと感じ始めていた。俺の常識、考え方と基礎(ベース)の部分から違う。これが族の違いだと言われるなら、なんとなく理解できそうな気がする。

「飯を食ったら外へ出る」

 胡蝶は返事を待たずに奥へ消えた。強行的な彼女のやりように、グツグツ怒りを煮えたぎらせていた。アイツだけは絶対に好きになれない。なんであんなワガママな女が族長なんだ。

 身支度をしていると薄紅が様子を見にやってきた。食事は整えてありますよ、と癒し系の声を微笑ませる。

 俺は薄紅に相談をもちかけた。彼女なら優しく答えてくれると思ったからだ。薄紅は上品に相づちを打ちながら話を聞き、口を開いた。

「サイジョウヨシヒト様にとりましても、胡蝶について各地を回った方がよいと思います。彼女、あれで結構強いですし、仲間を思う気持ちは人一番ありますよ」

「でも、俺は蝶族じゃない」

「ええ」

 薄紅は俺を気遣い、心を痛めるような表情で笑った。

「いつかきっと思い出しますよ。私もサイジョウヨシヒト様のためにお力になれることは致します」

 別に自分の族を思い出せなくたって、なんてことなかった。だが周りがこんなに哀れな目で見つめるもんだから、自分がひどくみじめに思えてしまうのだ。れ物に触るような彼女らのためにも、自分も族を見つけ出した方がいいかもしれないという思いに至るだけだ。

「胡蝶は他族には容赦しないみたいだけど、蛾族とは仲がいいんだな」

 そう言うと、薄紅はふっと表情を緩ませて喋った。

「蛾族は、胡蝶が他族に警戒心をいだく前にもった絆があるからでしょう。幼年の頃から見知っているのです。気さくでいい方ばかりですよ」

 俺の支度がすっかり済んでいるのを確認した薄紅は、部屋を出るよう俺を促した。なんだかまだ喋り足りない気がして、俺はその場を動かなかった。

「なぁ、胡蝶の探している人って?」

 薄紅を引き留めて尋ねた。彼女は肩を強張らせたが、目を逸らして振り切ってしまうこともできず、優しさによって板挟みにされたいびつな表情で答えた。

「私の口から申し上げるのは不適切です。あなた様にも話していいと判断したら、胡蝶自らお話するでしょう」

 よそよそしくなり切れない彼女の困惑を感じていた。わだかまりは消えなかったが、なんて言ったらいいのか本気で悩んでくれている彼女の戸惑った顔を見るだけで、温かい気持ちが溢れていくのがわかった。俺は自分が何族であっても、薄紅に何かあったら本気で味方になりたいと思った。こんな(すさ)んだ世の中じゃあ、彼女のような弱々しく穏やかな光は押し潰されてしまう。俺が授かった神力で救いたい。

「わかったよ」

 のぞき込んで微笑みかけると、彼女もやっと安心して微笑(わら)ってくれた。その笑顔で、俺の内部でいくつもの部分が救われる。彼女にも同じことがしてあげられているのだとしたら、大して立派な男でもないけれど、俺にも残されているものってあるんだな、と実感する。

 こんな原始的で当たり前みたいなことが、ずっと前からスルーして流してきたけれど、立ち止まって熱く〝貴重だ〟と思えたのだ。何もかも違った世界に迷い込んできて、心の中身は変わらないまま、質とかが変わっているのかもしれない。本当に大切なものを見過ごしてきたことを思って体は怯えた。同時に、この世界で今から起こる物事には新鮮なものがたくさん隠されているようが予感がして、二重に体は震えた。先は見えないが、不思議な期待に心臓は騒ぎ立て、手足は引き締まり、目は映るものそのままに飲み込もうと待機する。旅でもなんでもやってやれと思えた瞬間だった。

その7

 夜なのに、いや夜だからこそ人通りは盛んだ。昼になれば今歩いている人の全てが住まいに引っ込み、寝息を立てるものだから、不思議な感覚はぬぐい去れない。中央に大きな街道があって、そこから店の脇に細く抜けていく道があるのは、テレビとかで見た時代劇の、江戸の街の様子に似ている。通行人の服装は、赤茶色や黒の石を首から提げた呪術的な格好である。

 さっきプレゼントした勾玉のネックレスは、薄紅にとてもお似合いだ。茶色の石に縄紐というシンプルなデザインが、大人しくて目立たないが、素朴で優しい彼女の性格をありのままに表現している。欲しそうにしていたのを見逃さずに買ってやった。だが悔しかったことに、遠慮する薄紅にプレゼントすることができたのは、胡蝶がいたためだった。手を振って「とんでもございません」と断固断る薄紅に迷惑などとは一切考えず、「買ってもらえ」の胡蝶の一言に押されるようにして、ネックレスは薄紅の物になった。あれだけすまなそうにしていたのに、首にげてみた薄紅はとても嬉しそうだった。その笑顔を見るだけで、買ってやった男というのは満足するもんだ。

 櫓の下あたりで、何人かの子どもがわいわい騒いでいたのが目についた。尺蠖が取り囲まれていて、一見していじめられているところだとわかった。彼は交互に蹴り倒されたり踏みつけられたりしながら、悪口を浴びせられている。行き交う人はその光景に気づきながらも、見て見ぬ振りをして通り過ぎていく。役立たずな住民を押し退けるようにして近づいた。

「お前、ムカツクんだよ」

「悔しかったら殴り返してみろよ」

「お前の存在がうざいんだよ」

 子どもは残酷だ。相手の気持ちも考えずに思ったことをぶちまける。

「やだー。あいつキモーイ」

 家と家の間からは女の子の声が聞こえてきた。見れば顔を醜くゆがめた女子が二人、寄り添って遠くから尺蠖を見つめている。男のいじめはストレートで、女のいじめは陰湿だ。

「イタッ……」

 数々の乱暴を受け、尺蠖は低くうめきながらも、決して言い返したりしない。ひたすら耐えているだけだ。

「コラッ、貴様らっ!」

 胡蝶が輪の中に入り込んで制しようとする。

「弱い者いじめはよせ。そんなことをしたって何にもならん!」

 子ども達は煙たそうな目で胡蝶を見上げるが、その場から動こうとしない。むしろ胡蝶まで巻き込んで悪口をぶつける標的にしそうな勢いである。

「なんだよ。アンタ邪魔なんだけど!」

「ババアどいてくれない?」

「お前、私に向かってババアだと!?!?」

「ババアじゃねぇよクソババアだ!」

 胡蝶が子どもの悪口に本気になって怒鳴る一方、俺は冷ややかな気持ちで呆れ返っていた。悪ガキってどこにいってもこんなんだし、こんな悪ガキにムキになる胡蝶もやっぱガキなんだな。まぁ、自分にもこんなガキの時期はあったけどな。

 胡蝶がいじめっ子と喧嘩している間、どうやって尺蠖を救出しようかと冷静に考えていた。胡蝶の短気な性格がありがたいことに時間を稼いでくれている。まずはなるべく彼らから尺蠖を引き離さなければ。

「貴様らッ! 私を虚仮(こけ)にしてタダで済むと思うな!」

 言うなり胡蝶は短剣を両手に光らせたもんだから、俺も薄紅もハッとして固まってしまった。子ども達も身を固めてその場から動けない。ピリピリとした空気が辺りに張り詰めた。

「胡蝶、何をしているのです!」

 慌てて止めに入ろうとした薄紅をその場に居とどまらせ、代わりに俺が割って入った。

「子ども相手に本気になったら、お前も同じレベルだってことだ」

 胡蝶は理解できない言葉を使われなおさら目を(いか)らせる。

「一度思い知らせてやらんと気が済まん!」

 短剣を握る手に力を入れる。胡蝶は本当にこいつらを斬りつけようとしているのか。子ども達はやっと事の重大さに気づき震え出したが、胡蝶を睨んだままその場から離れない。尺蠖も不安そうに成り行きを見守っている。

「こういう時に、俺の術って役に立つと思わないか?」

 どうしようかと考えながら子供達を見回した。すると中でも反抗的な目つきの男の子が、俺を睨みつけて叫んだ。

「お前らどっかいけよっ!」

 心に思い浮かばせるだけでたやすく全ては思い通りになる。その子を持ち上げるのにほとんど力はいらなかった。驚きで声を上げながらゆっくり上昇していく子を、自分の術の正確さを確かめながら浮かせていった。スピードも、力の入れ具合も、方向も、完璧に意図した通りだ。寸分の狂いもない。手なんて使わなくても術に支障はなかったが、俺のワザであることが周りから見てわかるように、物々しくフリをつけた。通りを行き交う大人達も、子どもが見えない力で少しずつ浮き上がっていくのを呆然と眺めていた。屋根よりも高く、櫓よりも高い場所まで上がった時、持ち上げていた子はドッと喚き散らして暴れ出した。二度としないか、と問いかけると、あれこれデタラメに叫びながらも、わかったと言っているようだったので、ひとまず降ろすことにした。降ろすまでが俺の芸術だ。新体操選手の着地みたいに、細心の注意を払い、ピタリと地上に美しく配置させた。恐怖を増幅させるために浮かび上がらせたのに対し、降りる時は一切の不安も感じさせなかった。我ながら惚れ惚れするような術だ。

 男の子が着地した途端、子ども達は一目散に逃げ出そうとした。だが俺も自分の術に酔いしれるばかりではなく、きちんと次の段階を踏んでいた。逃げ出す子の足を封じたのである。そうでもしなければ、目にしただけで恐怖を感じていない他の子がいじめを繰り返さないとも限らない。全員一様に恐怖を体感させてお仕置きする気でいた。自分の足が突然動かなくなったことでますます恐ろしさにすくんだ彼らは、どうしていいかパニックになったようだ。上半身から前方に倒れ込み、引きずろうとした体のうち、足だけがついてこない。遠くを引き寄せようとする手は、虚しく宙を切った。叩いても、引っ張っても、足はびくともしない。とうとう何人かは泣き出してしまった。

「もう尺蠖のことは放っておけ」

 子ども達は瞳を潤ませ、何度もコクコク頷いた。全員の表情を確認した後、彼らを術から解放した。自分達の足が自由になったと知ると、彼らは足首をグルグル回したり膝を曲げたりして確かめた。体の一部がまた自由に動かせるということに不思議さを感じながらも、そそくさと逃げていった。後に残されたのは尺蠖一人だ。

 彼を見下ろすと、泣いた跡は全く見られなかった。あの虐待の中、一度も涙を流さなかったのである。酷い仕打ちに、ずっと泣かずに耐えてきたのかもしれない。散々なぶられた体を引きずって、人目のつかない場所まで行ってから泣いていたのだ。

「尺蠖……」

 唇は腫れ、足はあざと擦り傷だらけ。腕は紫に膨れ上がり、衣類は所々が破けていた。痛々しい姿で俺達を見上げている。泣きもしない彼を見つめたら、却って胸が痛んだ。

「やり返さぬのか」

 尺蠖の目の前にしゃがみ込み、目を見つめて胡蝶は問いかけた。あの光景を目にしたためだろうか、口調は以前よりもだいぶ穏やかになっていた。

「またやられるもの。もっと酷くなって返ってくる」

「そうか」

 胡蝶は尺蠖の頭に手を載せた。

 俺も胡蝶にならって腰を落とすと、尺蠖を見た。泣いていない時の彼は、しっかりと意思を据えた賢明な瞳をしていた。

「なんでいっつも僕ばっかり、こんな(つら)い目にわなきゃいけないんだろう……何も悪いことなんてしていないのに……」

俯いてそう言うなり尺蠖の目に涙がにじんできた。先程までの尺蠖は知的にさえ見えたが、涙を浮かべている彼は残念なことに、ただのいじめられっ子にしか見えなくなってしまった。本当は芯のあるヤツなのかもしれない。けれども度重なるいじめで泣き虫になってしまったのだろう。

 目を潤ませ鼻をすする尺蠖は、困惑した表情で俺らを見ていた。どうやらうまく泣けないらしい。大通りを行き交う人の目も気になる。場所が良くないと思い、尺蠖の手を引いて狭い路地に入った。やがていつもの泣き場所に辿り着くと、彼は泣き慣れた環境に安心したのか、本格的に泣き出した。

 彼がおいおいと泣きじゃくっている間、呆然と眺めていた。ここからなら街道までに家並みが障害となって、声もさほど届かないのだろう。思う存分彼は泣いた。

 尺蠖の泣き声を聞いていたら、不思議な感覚に捕らわれていった。幼い頃俺は、こんなふうに泣いたことがなかった。大声で泣けば近所の迷惑になると親から怒鳴られ、だんだん泣かないようになっていった。幼稚園で泣けば先生が飛んできて、天使みたいに優しい声で訳を聞くから、泣くに泣けなかった。小学校に上がっても、中学生になっても、泣くことは恥ずかしいことだという考えが根付いていたから、我慢した。辛いことがあれば、部屋で声を押し殺して涙を流した。そのうち性格が冷めてくれば、泣くことなんてみっともなくてできなかった分、怒りに変えて親や物に当たっていた時期もあった。

 目の前で今、こんなに止めどなく溢れる苦しみや悔しさを全部涙に変えて流していく尺蠖を見ていたら、自分には子どもの時間ってあったんだろうかと思えてきた。なんだか忘れ物をしたような虚しい気分になって、ふと空を見上げると輝かんばかりの星空である。夢みたいにいつの間にか大人になってしまった。名前を言い当てることはできないが、何かとっても大切なものを自分の中に可能性として持っていながら、目を向けずにずっと仕舞い込んでホコリをかぶせてきたものがある気がする。尺蠖は、そのホコリをすべて吹き飛ばすような勢いで激しく泣いている。

 尺蠖はだんだんと勢いを落とし、手で目を拭いながらぐすぐすというところまで落ち着いた。その収束ぶりは見事なくらい自然で、彼は泣き上手なんだと感じた。羨ましいくらいだ。顎から滴る涙もキラキラ輝いている。

 泣き終わった彼の正面にあったのは、胡蝶の爛々と輝く瞳だった。尺蠖は怯えることもなく胡蝶を真っ直ぐに見つめ返した。二つの目が調和したように繋がる。

「奴らはずっと前からああだったのか?」

「最初の頃は遊んでくれていた。けど僕がドジすると、冷たい目で見られるようになって……それからずっといじめられてるんだ」

「ドジとは?」

「みんなで作った砂の塔を崩しちゃった時とか、遊ぶ約束してたのに場所を間違えて、ずっと待たせちゃったりとか……」

「他には?」

 俺も問いかけると、尺蠖は濡れた瞳で俺を見上げた。ドキリとするくらい澄んで綺麗な瞳だった。

「思い当たるのはそれくらい」

 子どものいじめなんて、些細なことが原因だもんな。

「して、仕返しはしてやったんだな?」

「お父さんもすごく怒って、やり返せって言うから、三回くらい反抗してみたんだ。でもやり返せばやり返すほどひどくなるから、もうやらないよ」

 また尺蠖は泣き出しそうな声を出す。

「三回で屈するのか」

 もどかしそうに胡蝶は眉間に皺を寄せた。尺蠖は涙目で、

「そういうの好きじゃないんだ」

 とせがむように言った。

「僕、武人にはなれなそうだよ……」

 俯いて一人言のように彼は呟く。尺蠖の事情を知ってしまった胡蝶は、以前のようにこそ苛立たないものの、やられっぱなしで行き詰まっている状況にやきもきしている様子だ。

 ふと一つの疑問が沸き上がる。

「武人になるしか道はないのか?」

 皆、武人になるかならないかの二択だけで悩み、絶望している気がした。別に武人にならずとも、農家になったっていいだろうし、商いをしてもいいはずだ。なぜ武人になれなそうってだけでこんなに重苦しい空気になるのか。

 だが無惨にもその可能性を否定したのは、冷ややかに口を開いた胡蝶だった。

「我々以上に蛾族の男は、武器を持たなければ何の取り柄もなくなる」

 わかっていた現実を改めて突きつけられ、尺蠖は口元をぎゅっと引き締めた。

 俺にはわからなかったが、それがこの世界での常識なんだろう。

 でもどうして彼らは、疑うこともなく過去から引き継がれたしきたりに従って生きているのだろう。生まれた瞬間から自分の将来が決められているなんて。向いていなければもう、他に逃げ道が無いだなんて。もし俺が蛾族に生まれていたら――。体を駆け抜ける嫌悪感が、魂から俺は蛾族じゃないと訴えている。

その8

 突然半鐘が激しく鳴り出し、辺りが騒がしくなった。

「火事か?」

 意識を高いところに持ち上げると、村の入り口からそう遠くないところに軍隊が押し寄せているのが〝え〟た。手に松明をかざし、小走りで近づいてくる。凄まじい数だ。丘陵と窪地を物ともせず押し寄せる様は黒い津波のようだ。早めに気づいて迎え撃った蛾は集団を前にしてなすすべもなく倒れ、飲み込まれていく。蛾族の住民が奴らに気づいたのは、村の入り口がおびただしい敵に覆われてからだった。蝶族の武人達が卑比瑠とともに武器を携え、家を出るところである。しかし人数が違いすぎる。強そうには見えないが、あの数に攻め込まれたら、村は無事ではすまないだろう。

「村が敵に襲われそうだ。卑比瑠が迎え撃とうとしている」

「なんだと!?」

 胡蝶は怒りの目を(たぎ)らせたかと思うと、次の瞬間には走り出していた。尺蠖が不安げな顔で俺と薄紅を見上げた。

「この子を頼む」

 尺蠖の背中を支えながら言うと、言葉を向けられた薄紅は頷いた。カーン、カーン、と半鐘はせわしなく鳴り続けている。暗かった空の一部が赤く染まり始めた。

「遠くに避難してろ! 俺達は加勢してくるっ!」

 そう叫びながら、村の奥へと逃げ出した民衆が突っ込んでくる方向へと駆け出した。

 民家は燃えていた。水道がなく、川からの汲み水で生活している蛾族の家屋が延焼するのに時間はかからなかった。次々に燃え移っていく赤い光は、獲物を糧に成長していく邪悪な生き物のように、みるみる巨大な炎の塊となった。月夜に炎々と火柱が燃え盛る頃、やっと戦線に辿り着いた。既に多くの死傷者が辺りに転がっていた。夜とは思えない程真っ赤に焼け付く背景に、動かなくなった武人が地面を黒く染めている。地平線を画しているのは敵の一族の軍隊だった。荒れ狂いながら刀を振り回して蛾族と蝶族の部隊に切り込み、勢いの衰えた者達を次々に飲み込んでいった。悲惨な光景に言葉も出ず、これは現実だろうかと頭がふらふらした。

 敵は民家の立ち並ぶ村の中央にかなり侵入してきていた。敵も数多くの兵士を失っていたが、まるでいて出てきているかのように数が尽きない。卑比瑠はまだ生き残り、荒ぶる刃で敵をぎ倒している。

「チッ、(あくた)か」

 胡蝶が向かっていった先を目で追うと、ひょろりと背の高い男が物見櫓の上で指揮をっていた。顔がてっとりと脂ぎっていて、ニタニタと薄気味悪い笑いを浮かべている。燃え盛る炎のせいだろうか、敵軍は皆、芥と呼ばれた敵将と同じような気色悪い笑みのまま侵攻を繰り広げていた。元々そういう顔と胴体の作りの虫なのかもしれない。このいやーな感覚、ゾッとする感覚は記憶にある。遭遇した瞬間に全身の毛が逆立つようなおぞましさ、とんでもないスピードで地面を這い回る脚、黒光りする頑丈な鎧。まさか、と思った途端、ヤツらはブウンと空に飛び上がった。

 地獄のような炎をバックに夜空を覆う無数の黒い虫の姿は、もはやトラウマ級のホラーだった。突然上空からの攻撃を受けた蛾達は次々に悲鳴を上げ、なすすべもなく地面に倒れた。俺も別の意味でギャアアと悲鳴を上げてしまった。振ってくる武器や炎は、例の術を使って無我夢中で薙ぎ払った。

 嫌だ、怖い! 自分と同じ大きさのゴキブリなんて。絶対に夢に出てくる。しかも大勢で武器を持って襲ってきている。何よりもベタベタとわらうあの顔。怖い! 殺されるのも怖いけど、生きてても怖い記憶として残り続ける予感しかしない。

 どんどん蛾族の兵士が力尽きていくと、必然生き残りに対して狙いが集中した。俺の周りには誰もいなかった。たくさんの槍や石や松明や剣が振ってきた。俺がすべて弾き返していくのを見て取ったゴキブリどもは、地面に降り立つと四方八方から襲いかかってきた。

 俺は目をつむりあらん限りの声で叫ぶと、頭の中で鮮明にイメージをした。次の瞬間、辺りで燃えていた炎が巨大な火柱となって夜空にゴッと吹き上がり、空中にいた虫をすべて飲み込んだ。そしてそのまま火柱は炎の渦となって、俺の周囲にいた虫達をゴクリと飲み干した。何が起きたのかわからないといったような困惑と、絶命するという初めての体験への興奮が入り混ざった気色悪い笑顔が目の前で赤く燃えてゆく光景が、脳に焼き付いて離れなかった。

その9

 静かになった夜に、刃物がかち合う音が響いた。勇ましいかけ声は胡蝶のものだ。見上げれば櫓の上で、一人芥とやり合っている。大勢の軍隊を指揮するだけあって、かなりの強者らしい。胡蝶は小柄さを生かして芥を狙い討つが、芥の全身は鋼の鎧で覆われており、短剣がまるできいていない。狭い櫓の上では、得意の飄々ひょうひょうとした蝶舞もうまく展開できず、芥が繰り出す突きの連続に押され気味になっている。

 俺は自らの脚に術をかけ、俊足で櫓に接近した。業火の中をくぐり抜け、心がほとぼる。櫓のすぐ下に辿り着くと、一足飛びに飛び乗った。

 勢いだけで来たはいいものの、いざ現場に立つとどう始末をつけていいかわからない。胡蝶と芥は突然現れた俺に気を取られたが、それも一瞬で、すぐさま事情を解した芥の鋭い突きが襲ってきた。咄嗟のことで反応できない。危うく貫かれそうになった時、脚を思い切り引っかけられてすっころんだ。代わりに差し出された短剣の一つが突きを防ぎ、続けざまにもう一本の短剣が芥の首元まで伸びるも、あと一歩というところで及ばない。

「いってぇな……」

「ふざけてる場合じゃない!」

 言うなり胡蝶はまた芥と斬り合いを始めた。

 助けに来てやったのに、邪魔者みたいに蹴り飛ばしやがって。だが俺も、まるで役に立てていない。せっかく強力な能力を持っているというのに、ただの足手まといにしかなっていない。

 俺はただでさえ狭い櫓のスペースをさらに狭くして、背後から様子を窺っていた。隙あらばドッと、と思ったが、術で押し飛ばそうにも、二人が近接していたら放てるものも使い物にならない。

 胡蝶が目の前で闘うのを、初めてちゃんと見た。相手もかなりの者だったが、胡蝶の気迫と腕前もなかなかのものだった。跳ね返されても押し戻されても、めげずに次々と別の一手を繰り出した。相手の命を沈めるまでは止まることのない兵器のようだった。

 二人とも、目にも留まらぬ早業で攻撃を繰り出していた。いったいそれぞれの状況を脳でどう処理し、次の動きを指令として出しているのだろう? いや、脳で判断していては遅い、こんな動きはとてもできない。きっと体が無意識のうちに反応し、考える間もなく次の動きを取っているのだろう。そしてそれを、連続に継ぐ連続で行っている。どれほどの訓練を積んでいるんだ。

 ミリ単位、コンマ単位の熾烈なバトルのバランスは、ほんのわずかなズレで崩壊する。一瞬の隙を見逃さなかった芥の蹴りが胡蝶の腹を直撃し、俺のところに吹き飛んできた。

 間髪入れずに伸びてくる突き。だがその瞬間を俺の方も見逃しはしなかった。やっと胡蝶から離れた芥を思い切り風圧で押し飛ばす。そしてそのまま巨大な風の腕で以て、真っ赤に燃える火の海の中へと導いていった。

その10

 炎は末期まつごの力を尽くして燃え上がっていた。照らし出される朱い海と、水面に浮かぶ数多くの死体。冷たく冷めてゆく頭の中で、死ねば敵も味方もないもんだと感じていた。皆一様に、同じ動かないモノとなる。生きている間だけ、自らの属する世界で自分達の生き様に従って派閥を作っているのだ。なんて虚しいことだろう。こいつらはもう起き上がらない。

 炎のくすぶる大地を胡蝶と歩いていたら、厳つい大男が地面に手をついて震えていた。彼の前には、何人もの蛾族の仲間が横たわっていた。男はまるで獣のように、低く吠えていた。

 胡蝶が卑比瑠の肩を無言で叩くと、岩のような男は立ち上がった。涙を流している訳ではない。感情を高ぶらせているというよりは、逆だ。穴の開いたようなぽっかりとした様子だ。地面に折り重なった味方へと向けられた表情は、このままその場を去って行くことに対する戸惑いの表情だった。

 何でも思い通りに出来る能力があるというのに、なんともスッキリしない嫌な気分だ。真っ赤に燃え盛った戦闘の風景と死屍累々ししるいるいたる光景は、ずっと心に焼き付いたまま、尾を引き続けることだろう。

 俺は立ち止まると、地面にうずくまって動かなくなった武人の一人に視線を落とした。まだ若い。どことなく尺蠖に似ている。どうしても彼をそのままにしておけなくて、近くに膝をついた。そして、映画か何かで見たように、冷たくなった体の上に手をかざした。気の入れ方なんてわからないが、風や大地を操る時と同じように、そうなるようにと念じた。奇跡が生命のことわりを乗り越えるように――。目を閉じて、我流で全精神力を込める。

「おい、何やってるんだ? 行くぞ」

 胡蝶の声は無視した。たとえやり方がわからなくたって、万能の力を得た俺には蘇生くらいできるはずだ。額から汗が溢れ、手の平が熱を帯びて熱くなっていくのがわかる。気は確実に俺の体内から目の前の武人に注がれている。もうこれ以上送れないというところまで必死に気を送った。目を開けていることを願い、俺もゆっくり目を開けた。

 夜の風が冷ややかに通り抜け、俺と目の前の人物の前髪を揺らした。武人は同じ体勢のまま、少しも動いてはいなかった。もちろん目も。感じたくないことだが、俺の脳の中の人間的聴覚を超越した部分は、彼の心臓音を感知していた。ゴーッと、体のあらゆる機能を休める作業に入った音以外、何も聞こえない。一番大きく聞こえるはずの心拍音はついぞ、感じることはなかった。

その11

 家中を探し回った卑比瑠が持ってきた物は、周辺地域の地図だった。開いてみると各族の位置関係を示しただけの大雑把な図面であり、いくつかの族の名称が載ってある他は、大して有力な情報は書かれていなかった。これでは使えないと思ったが、胡蝶が大いに感激して礼を述べている様子からすると、この世界ではこれくらいの地図が普通なのかもしれない。

「では早速これを写して……」

 胡蝶が面倒な事を言い出したので、俺は術でその地図を複写し、原本を卑比瑠に返した。二人は「おお!」と声を上げ、元あった図面と見比べて驚いた。

「一体このわずかな時間で、どうやってこんな早業を行ったというのか!」

「さすがサイジョウヨシヒトだ! 我々の想像を遙かに超えている!」

 言わせるだけ言わせておく。七割方は呆れて物も言えなくなっているだけだが。

 これくらいならたやすくできるのに、人の命は戻せない。

 襲撃があった場所は、あの夜のままたくさんの遺体が転がっていた。誰も片付けようという気が湧かないのである。地面は大量の血を吸い込んで黒ずんでいる。

 本当は生き返らせることができると思っていた。だから自分が殺される以外はかすり傷、だなんて思ったのだ。この魔力(ちから)に際限があるとは思いもしなかった。人の何百倍の力もある大地や大木だって、願うだけでその通りに動くというのに。

 卑比瑠は俺らが店を回ったりしていた間、知り合いの家を一軒一軒訪ね、〝族の記憶を失くした者〟のことを聞いてくれていたそうだ。彼によれば、少なくとも蛾族には思い当たる節はないとのことだった。俺だってここにいて何の記憶も戻らないんだから、違うだろうと胡蝶に言った。彼女が頷いて、「村を出よう」と言ったのは昨日のことだ。胡蝶は地図を薄紅に手渡し、立ち上がって半焼した家を出た。

「世話になったな」

「ああ、親戚なんだから、いつでも頼ってこい」

「村が元通りになるまで、時間がかかるだろう。手伝えればいいのだが……」

「気にするな。次にお前がここに来たときには、また賑やかな村に戻してみせるさ」

 元々賑やかでもなんでもない村なのに、卑比瑠は盛大なことを言っては大空に向かって笑った。

「お前も早く族が見つかるといいな」

「手間をかけたみたいで。ありがとう」

 星空の下、胡蝶が大きく手を振る。俺も片手を上げた。生き残りの同行兵達は皆丁寧に深く一礼している。

その12

 村を出ようとした所で、一人の子どもが待ち構えていた。膝や腕が傷だらけだった。目は真っ赤に腫れ上がり、今にも泣き出しそうなのを、鼻をすすり上げることでこらえている。

 尺蠖は俺と胡蝶を見上げて言った。

「連れてって。僕は蛾族(ここ)じゃ生きていけない」

 何人かの口から溜め息が漏れる。

「あのな、小僧。子どものケンカからお前を守ってやれる程ヒマじゃないんだ」

 胡蝶の突き放すような態度も、今回はやむを得ない。

「ケンカじゃない。イジメだよ」

 胡蝶はしばらく尺蠖と目を合わせていた。

「じゃあ、子どものイジメに負けてメソメソしてるようなヤツが大人の命懸けの闘いに着いてこようとしたって、邪魔にしかならない」

 紛れもない真実かつ現実を突いた言葉だった。だがあまりに胡蝶のセリフがキツすぎたので、俺と薄紅は尺蠖のフォローに入ろうとした。すると尺蠖は濡れた目をキッと輝かせて胡蝶を睨んだ。

「僕は君達みたいに強くなりたい!」

 尺蠖のすぐ近くにしゃがみ込んだ俺は、その手の平にたくさんの豆が出来ているのを見て取った。見れば身体中の擦り傷も、誰かに殴られた受け身のものではなく、自らの意思で積極的に迎えにいった、初めての傷の形をしていた。

「じゃあなおのこと、蛾族(ここ)で鍛えるんだな」

 胡蝶は尺蠖を避けて歩き出した。軍人達も胡蝶の後に続く。

 尺蠖は打ちのめされたような、何もかも投げ出したさそうな、悲しくて立ち上がれなそうな、途方もない無力感で生きてゆけなそうな表情をした。こんな幼い少年にはあまりにも不釣り合いな、深く沈んだ表情。

 薄紅が尺蠖を抱き締めた。その痛々しい表情をも包み込むように覆いながら。

「ごめんね……ごめんね……」

 薄紅は何度も何度も尺蠖に謝る。尺蠖は薄紅の腕の中でピクリともしない。

 俺は尺蠖の頭に手を置いた。薄紅の腕がほどけて、尺蠖の無に近い表情が目の前にあらわになる。

「なぁ尺蠖、今はかがんでてもいいんだ。いっぱい泣いていっぱい悔しがればいい。大人になった時、その分いっぱい羽ばたきな。そのためにお前は今、力を蓄えているんだ」

 尺蠖の瞳に炎が灯されるまでには少し時間がかかるかもしれない。それでも確かに、この子の中にはその火種の元があるはずだ。

 俺は立ち上がった。尺蠖は呆然としていたが、大丈夫、大丈夫、と俺は心の中で、自分と尺蠖の二人に対して言い聞かせた。惜しむようにしながら薄紅も腰を上げた。

「またな」

 そう言ってもう振り返らなかった。薄紅はにこやかに手を振った後、小走りで着いてきた。

 少年の首からぶら下がる赤茶色の呪石(じゆせき)が俺の言葉を吸い込み、呪文みたいに月にまじなう。願いの溢れる夜空はきらめく神秘に満ち、いつ奇跡が降り注いでもおかしくない。首を傾げる三日月は微笑む空の眉にも似て、優しく慈しみの眼差しで、小さき勇者を見守っていた。

>第3章 蟻族

オマケ:登場人物ネーミング由来

蛾(ひひる):の古称。漢字は当て字。

尺蠖せっかく:尺取虫のこと。
※「尺蠖の屈するは伸びんがため」:将来の雄飛を期し、今はじっと屈辱を耐え忍ぶこと。(『故事ことわざ辞典』)
ということわざが好きで登場させたもの。ことわざを忠実に再現しようとしたけど、力量不足につきウザいマンガっぽくなってしまったのは無念。でも多くの人に知って欲しいことわざ。

あくた:つまらないもの。ゴミ。ゴキブリの頭領の名前。適当な古称が見つからず適当につけた。ゴキブリの古称は「御器噛ごきかぶり」って、結局「ゴキ」になるじゃん。名前のしつこさまで強靭か。

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