
20年近く小説の新人賞に応募しているけど、まるでかすりもしない桃花です!
前回2024年版を書きましたが、2025年版ということで再び掲載します。
自分用なのでほとんど参考にならないかとは思いますが、
世の中にはこんなバカもいるんだな、って読む分には、時間潰しくらいにはなるかもしれません。
まえがき
「○○年版」って書くってことは、毎年落ちる前提なのか?
と、負け癖がついてる自分にツッコミを入れつつ、実際に書いたことで利点も見えてきたので(←後追い)、悪いことばかりでもないなあと思っている。
今回、この個人的敗北を記録するに当たって、意義とかメリットとして感じたのは次の4点。
- 個人的記録の保管(日記)。
- 喪に服する儀式として。
- 前回からの成長の過程がわかる(かもしれない)。
- 自分への励まし。
順不同にはなるけど、これらにも触れつつ今回の状況について述べていく。
自分への励まし
自分で自分を励ましたり、慰めたりする技術というのは必要だ。
そういう人が傍にいる人は幸福だと思うけど、私の人生上、〝自分で自分を励ます技術〟というのが絶対的に必要不可欠で、それとともに歩いてきた人生といっても過言ではない。
その源泉が詩で、その先にあるのが小説だ。
そしてそこから受けた傷跡も、書くということで洗い流さなければと思う。
喪に服する儀式として
前回は、個人的な日記として書いたが、やはり心の中で悶々と抱え込んでいるよりも、何かにして吐き出すというのはいい。そしてそうすることで、具体策も見えてくる。
しかし、こんな超個人的などうでもいい話を公開して何になるんだ、というのは、弱気なブロガーなら誰もが思うところである。しかも内容は、うだうだとした泥沼のような苦悩である。超非建設的だ。
そう思って、2025年版は書くまいとしていた。書いたところで何にもならない。私の応募作品のようにね(←超弱気)。
でも、そうして一人で落ち込んでいたら、すさまじい苦痛がやまぬ嵐のように押し寄せてきて、散々なことになった。そこで気づいたのだ。
〝喪に服するための儀式〟が必要だなと。
苦悩に押し潰されたまま、それに一人、耐え続けるのはでなく、
いつまでも立ち上がれそうにない自分を蹴飛ばして、「いいから歩けよ」と前進を強いるのでもなく、
こんなことで落ち込むとかどんだけ脆弱なんだよ、サッサと切り替えて次・次! 気楽にポジティブでいこうぜ! と自分を丸め込むのでもない。
こんななんでもないことにあまりに落ち込み過ぎてしまう自分の弱さと感情を正直に認めた上で、
その無惨な死骸を生み出したという課程をきちんと敬い、認めるきっかけは必要だなと。
世で華々しく活躍している才能まみれのプロ達や、そこに至る有能多才な人々は、こんな手間など不要だろう。感情を切り捨てられるのは迅速かつ鋭敏に成功を手にする強者の特性であり、感情を抱きかかえてウジウジするのは弱者の特質である。
でも、私にはそれが必要である以上、ごまかさずに想いと時間を費やそう。
人目につくような場所に「故・桃花作品様 ご葬儀」みたいな書き付けをする必要はない。
一人で、こっそりと、目を閉じ手を合わせる儀式が必要なのだ。
経緯
「そうか、私は作家にはなれないのだ」
そう思って、もう諦めたはずだった。
そうしたらなんか無性に自由に書きたくなって、書き上げてしまった。
やはりそれは一つの作品だから、「応募したいな」と、思ってしまったのである。
でもまぁ、そううまくいく訳もなく。
選考期間を経た後に長く続く「昨日までとなんら変わらない日常」は、永久の沈黙のように、冷たく尾を引いて続いていくものだ。
小説を書くというと、経験がない人や乏しい人からしたら、
楽しくてやってるんでしょ?
無我夢中でやってしまって、あっという間に終わるんでしょ?
何の労力も必要としないで、魔法のように出来上がるんでしょ?
っていうイメージがあるかもしれない。確かにそういう面もあるし、それだけで成功できてる作家さんもいるだろう。現代なんか特にそうだ。
でも、何かを生み出すということは、〝心血を注ぐ〟というのが一番適した表現なんじゃないかな、と私は思う。
私は他の有能な人達がどう小説を書いてるのかわからないけど、
私にとって【小説を書く】とは、もうクタクタになる程のすさまじいエネルギーを集中的に込める、ということだと感じている。
でももちろん、その一方で、楽しさや没頭感や愛情や手放せなさ、みたいなものもあるのは事実だ。
特に私は必要以上に熱を込めすぎる傾向があるから、その分、〝沈黙という回答〟であることへの反動は大きい。
気持ち
今回、落選したことで、私の中を途方も無い無力感と虚無感が占めるようになった。
もう本当に無理。なんて残酷なんだろう。自分の無力さ、才能の無さ。努力すらできない自分が憎い。私のやることには何の価値もない。広大な空虚。果ての無い深淵の底。すべてが無益無駄。非力。費やしたものは全部砂粒になって、手の平を無惨に滑り落ちてゆく。何のために生きてるんだろう? 空の青さも風のささやきもすべて夢みたい。私ってホントバカだな。
そうした言葉が、声無き無数の言葉になって、私の心を埋め尽くしている。埋め尽くされているはずなのに、感情は空っぽだ。何も湧き上がってこない。
こんなことで落ち込んでいるのは実に愚かだが、
一つの失恋を経たあとでなんとも傷つかない人というのも、また寂しい人間のように思う。
商売人的には動じなくて、芸術家的には動揺した方がいい、そんなところだろうか。
やはり感情を注ぎ込んでいるのだから、人であれば誰でもそれなりにヘコむものだとは思うけど、きちんと才能を切り売り出来る人というのもいる。彼らはプロで、そういう人こそ成功するものなんだろう。羨ましい。羨ましいけど、私はそういうふうになれない。なれないし、なれない絶望的な弱さが私の特性だろうと思うのだ。
前回からの成長過程
今回、執筆するに当たってやってみたのは、記録を取る、ということだ。
記録を取ることは昔からやってたのだけど、いつも途中でつけるのが止まってしまって、そのまんまになってしまった。だから今回初めてやり始めた訳でもないけど、〝自分の状態を客観的に把握する〟というのはやはり大事だな、と改めて感じた。
今使ってるのは、執筆時間、執筆文字数、読書時間、購入した本の冊数を日ごとに記録するエクセル表。(気分とか体調とかの変化も合わせて記録しておくのも良い。)
これで、時間単位あたりの執筆文字数というのがだいたいわかる。自分の執筆成果量なるものが厳然と示される。
そして、改めて判明したのだが、私は書き上げるのが本っっっ当に遅いのだ。
プロでも「遅筆」を自称してる方もいるけれど、これは本当に欠点だ。だが個性みたいなものだから仕方ない。加えて私は圧倒的に努力量が足りない結果だから、文句は言えない。
今回の実績
2025年に応募した作品についてお話する。これを仕上げるのに、どうやら1000時間程はかかったらしい。「らしい」というのは、3分の1まではカウントしていなかったのと、純粋な執筆時間だけしか計測してない(推敲等除く)ので、全体でかかった時間はわからないということだ。(ちなみに分量は、普段応募してる長編の3倍くらいの36万字程。)
残3分の2を書くのに、512時間かかっている。ということは、単純計算で、全体執筆に700~800時間くらいと推定すると、それを推敲し、また打ち込んで、というのをやると、1000時間くらいにはなるのかなと。
1000時間というのは、長いのだろうか短いのだろうか。(今回の執筆分量は少し特殊だが。)
たぶん、プロもアマも、同じ分量に対してこんなに時間かけないんじゃないのかな。逆に専業作家で、すごく凝ってこれ以上費やしてる人もいるとは思うけど、私のは何のアテもないものだからね。
どれだけ時間を費やしたかじゃないなんてことはわかってる。でも、数字で出る以上、「1000時間かけても無理なんだ」と思ってしまうのだ。もしかしたら、200時間で書いた小説が入賞してるかもしれないし、同じ1000時間で、私はもっと有意義な人生の使い方というものがあったのかもしれない。書く人からしたら、1作1000時間なんて大したことじゃない、と思うかもしれないし、成果や出来映えは、時間だけでは計れない。熱意も(残酷なことに)、結果には直接関係しない。プロになるのに必要な時間に関する研究で、【1万時間の法則】というのがあるけれど、2000時間で超売れっ子のプロになる人だっているだろうし、5万時間かけてもダメな人も、たぶん少なくないと思うのだ。
1000時間というと、週5日8時間働く人の計算で、単純計算6.25ヶ月分だ。これを、本業以外の時間でやるとなると、なかなかなことじゃないかと思う。
そのためか、今回の〝ドッと感〟はすさまじい。もう「なれない」と思って出したものだし、こんなことで人としての価値が貶められるものじゃないから気にすることはないんだけど、改めて自分の無能さと、運命のつれなさとを感じたのだ。
今書いてる作品を応募しよう、と思うと、時間をなるべく執筆に充てるような思考体勢になる。帰宅後もなんとか時間を捻出し、当然土日祝日は執筆をメインに1日が回る。年末年始や連休などは休むためのものではなく、執筆集中期間と化す。
仕事や家事をしながら、全く報われない可能性の方が遙かに大きい一縷の望みに向けて、情熱と時間を注ぐ。本業が別にあると、やはり時間と精神的体力(脳の体力ともいう)の確保が大きなネックになる。娯楽や休息のヒマはない。それでいて、相当なエネルギー量を消耗する。
本当にバカだと思う。少しでも才能や可能性がある人ならいいと思うけど、私の場合、人生の徒労とでも言うしかない。それでも、何の楽しみも苦悩もなく、平穏に人生が終わってしまう生き方よりも私らしいし、私はそのいじらしい生き方を愛している。
でもオススメはしないよ。「夢中になれるもの」を探してる人が多い現代だけど、この絶望感はとても耐えられたものじゃない。まぁ、ここまで落ち込むのは私くらいか。
得たもの
しかしながら、今回得たものもあった。特に、記録するということから得たものは大きい。
自分はまだこれしか読んだり書いたりしていないのだ、ということがわかったし、
逆に、
これくらいは積み上げてきたのだな、という密かな安心感(自信という程大袈裟なものではない)にもなる。
〝実績の確認〟というものの大事さがわかった。私はこれをしてこなかったから、ささやかな安心感を積み上げられず、無の上に重ねていくようなことを繰り返しては、毎度虚無感に襲われていたのだ。
確かに、1000時間の熱量は無に帰した。「その時間は無駄じゃない」などという安っぽい言葉が、現実の上ではいかに甘い戯れ言なのかを知ってる人は知っているけど、それでも費やしたのは事実だ。「投げ出さなかった」、それだけでもまずささやかな自負に変えよう。
自分へ
書くことそれ自体が、報酬になるといいのに。
別に評価も応援もなくとも、これまでもそうしてきたように、自分に捧げればいいのだ。
世に向ければ、私の言葉などすっと透明になって消えてしまう。淡雪よりもはかなく、空気よりも実体がない。
でも、一つの願いを持って、「誰かに届けたい」という気持ちは、愚かだろうか……。
報酬になるといい、と言ったけど、私のような人間には、書くということは〝呼吸〟なのかもしれない。
話も出来ないどこか遠い場所や時代の作者・作品から言葉を〝吸って〟、誰も聞いていない場所へとひとり自分の声を〝吐き出す〟。
やはり、どれほど下手でも認められることもなくとも、私は書かずにはいられないだろうと思うから。
うん、また次回、2026年版で経緯を語ろう。

これを書けたということは、すごく元気になったということ。
そして無力感に泣きながらも、また別の作品を書き始めてます。バカだなー。
前回も書いたことだけど、
たくさんの人の夢が叶うといいな、と思う。
報われて欲しい、というのも近い。薄っぺらいものが出回りやすい現代だからこそ。
真摯な想いも、見えない地中で育まれてきた根も、いつか大樹となって生い茂りますように。

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