[無料]自作長編小説 『戦乱虫想(せんらんむそう)』 第7章 蜘蛛族

アイキャッチ(戦乱虫想7) 長編小説
筆者
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執筆大好き桃花です。

大昔に書いた自作小説の第7章、ラスボス編なので長いです。

拙いですが、温かな目で見守っていただけると幸いです。

【注意事項】

著作権の都合上、無断での商用使用や販売などお控えください。リンク掲載や権利者明記の上での拡散等はお断り無しでOKです。個人で活動していますので、何か少しでも感じられた方は応援や拡散等していただけるととても励みになります。

本作は、2012年に新人賞に応募(落選)した自作長編小説を一部修正したものです。つたなく恥ずかしい限りですが、自分の成長過程としての遍歴を綴る、というブログの理念から勇気を出して公開します。

『戦乱虫想(せんらんむそう)』あらすじ

目を覚ますと、俺は虫達が闘いを繰り広げる戦乱の世にいたーーー。思った事を現実化させる不思議の術を持ちながらも、自分が何者なのかわからない。

現世に戻れる方法を模索しながら、自分の〝族〟を探す旅に出る物語。エンタメ系。

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第7章:蜘蛛族

その1

 薄紅うすべにはそれから七日間寝込んだ。目を開けない彼女が心配でならなかったが、寝息を立てていたことが俺の不安心をだいぶ救った。八日目、やっと彼女は起き上がり、疲れた様子だったが独特のやわらかい雰囲気で笑った。

 久しぶりの笑顔に包まれた俺は初めて、カッとして手を上げたことを反省し、謝罪した。胡蝶こちょうに謝ることをプライドが許さなかったが、怪我をさせた武人達には頭を下げた。皆、苦笑して、君がいればこの隊は安泰(あんたい)だよ、と声をかけてくれた。

 薄紅の体力が戻ったところで蜂族の城を出発した。

 城を出てからは、岩肌のゴツゴツした山道が多くなった。蜂族の領土の裏手にはいくつもの山脈があり、そこを超えなければならない。他族と出会うことなく、何日も何日も山を登ったり川を渡ったりした。

 ある日、何かの話題を若い蝶たちとしていたとき、胡蝶に術を向けた話になった。俺は調子に乗って自分の術を鼻にかけ、周りの蝶たちが俺の実力を賞賛していた。笑い声も吸い込む透明な夜空の下だった。

 湯の出る河原で体を洗った胡蝶が戻ってきた。いつもの香りが洗い流され、ほとんどしなかったので気づくのが遅れた。砂利を蹴る音に、笑い合っていた俺たちは振り向く。

 彼女の眼力が、四天王像みたいにこの世をにらんでいた。無造作に滴を垂らしたままにしている髪が色気とはまた違った強烈な魅力を放っていた。

「あのときのことを許したと思うな。それでもお前を連れているのはお前が仲間だからではない。我々蝶族にとって、少なからず有益だからだ」

 すっと脇の下を冷たい汗が走った。笑っていた蝶達が無口になる。

 言葉も出なかったが、その通りなのだろうと思った。何の愛想も無くお世辞でもない、真正直で率直な真意だ。だからこそ反発心も生まれず、真っ直ぐに向けられたその言葉を素直に受け取った。

 満天の星空の見守る地上で、一人、思う。俺に仲間はいない。

 まるでこの世の中で、たった一つの生き物であるかのようだ。

 なんとか眠りにつこうとしたが、夢に入りかけそうなところで意識の復活するのを幾度も繰り返していた。

 夢を見れば安心する気がする。自分がどこかの族の者だということを忘れられるように思うからだ。この感覚は、〝気がする〟よりもずっとはっきりそうだと認識していた。夜になると研ぎ澄まされる直感が、俺を眠りの向こうの世界へと強引に誘うのだ。救いの手を求めるように、夢の入り口を探した。映像の流れ始めるあたりで気を抜くと、急に意識がアクセルを踏み、一気に夢のトンネルから外へ出る。目を開けなくとも失敗を悟り、また闇雲に記憶の森の中を走り回ってみるものの、入り口ななかなか捕まらない。

 苛立ちでがばっと体を起こすと、不機嫌そうに口をへの字に曲げた胡蝶が眠っている。他の男達もしっかりと目を閉じて寝息を立てていた。

 夜が嚙み付いた記憶を風が切り裂き、俺はますます自らの居場所がわからなくなる。

その2

 ぼんやりとした体を起こした。どうも寝付けない。夜空には満月が高く輝いている。

「眠れんのか?」

 横になったままの胡蝶の声が聞こえた。驚きを悟られぬようぶっきらぼうな声で応じる。

「なぁ、胡蝶がさがしてる蜘蛛族の女って?」

 声に出してからしまったと思った。だが胡蝶は機嫌を損ねる様子もなく、(おもむろ)に首を左右に傾けたり腕を伸ばしたりして関節を鳴らした。うんと拳を突き上げて背伸びをしたかと思えば、妙に乾いた明るい声で、「散歩にいくか」と提案した。どうせ眠れなかった俺は、立ち上がり既に歩き出した彼女の後を追った。

 澄み渡った夜空は、どんな嘘も溶かしてしまいそうなくらい、甘く輝いていた。

 彼女の隣を歩くのは今日が初めてではないが、なんだか不思議な心地がした。秘密めいて(またた)く星が、俺と胡蝶の二人だけを世界から切り取るように見つめている。静かな夜がいっそうしんとしていて、今にも時が止まりそうだ。

 どこまで行くんだろうかと思うほど仲間達から離れ、深い渓谷の前まで来ると、胡蝶は逃げ道をなくした獣のように振り返って口を割った。

「兄は心の優しい男だった。私は物心(ものごころ)ついた時から、そんな兄をどうしても好きになれなかった。他の娘が勇ましい兄弟を持っていることが本当に羨ましくてな。この戦乱の世、求められるのは力と剣の技。兄はどちらもからきしだった。だから私だけは強くなろうと、女には任せられていない剣をたずさえたのだ。

 私が八つの時、兄は私より(とお)年上の、十八だった。

 母親は私を生んで数年も経たぬうちに、病で倒れ、かえらぬ者となっていた。父は高齢だったがこの村を束ねる蝶だったからな、跡取りのことをずっと心配していた。だが兄は痩身そうしんで腕力もなく、見るからに弱そうな優男(やさおとこ)だったから、ちっとももてはやされなかった。父はよく家柄のよい娘を捜してきては会わせていたようだが、どれもうまくいかなかったらしい。相手の気持ちを押し切って一緒になることはできないよ、なんて普通の男と正反対の事を言うんだものな。今考えれば兄の優しさだったのかもしれないが、あの頃はそんな兄が嫌で仕方なかった。どうして男の癖に、女の気持ちを奪う程の迫力も出せないのか。兄も、自分が長の血筋を守らなければならないとわかってはいただろうが、内心諦めていたところがあったのかもしれない」

 胡蝶は俯いていた顔で空を仰ぎ、夜を睨んだ。

「ある日、兄はかつて見たこともないような満面の笑顔で、私をこっそり呼び出し、打ち明けた。ちょうど父は村の周囲を警備するために家を空けていた。兄の記憶は薄くてほとんど残ってないが、その時の表情だけは強く印象に残っている。優しい兄が、一番まぶしく輝いた時だ。

『好きな女ができた』

 と、溶けるような声で彼はささやいた。私はぶっきらぼうに、そう、と言うことしかできなかったが、それでも兄は満足そうだった。女を心に浮かび上がらせ、目を細め頬を染めてから、兄は真っ直ぐ私の瞳をのぞき込んだ。

『誰にも言うなよ』

 そして声をひそませ、

『他族の女なのだ』

 と言ったのだ。

 それがどれほどのことか、お前にはわかるだろうか。他族と結びつきを持つのは、互いの友好を約束し、各々(おのおの)の族長級の娘や息子をその誓いの(しるし)として差し出すときくらいだ。いわば生け贄(いけにえ)。他族など、いつその誓いを破るやわからん。当時蝶族はどこかにねらわれているでもなく、他族との繋がりを必要となどしていなかった。だから兄がそんな危険な橋を渡る必然性など全くなかった。私は思わず驚愕きょうがくの瞳で兄を見返してしまった。

『安心しろ。俺はアイツを信じてる。アイツも俺のことを心から想ってくれている』

 妹とは言えそんな禁忌きんきおかす兄を引き留めるべきだったんだろう。だがあんなに幸せそうな兄など見たこともなかったから、私はそれでもいいかと思った。

 暢気のんきな兄はにこやかに続ける。

『いつかお前もわかるだろう、人を愛したときの気持ち。自分一つだけでなく、もう一つの幸せを作り出すんだ。全く別の虫と、繋がりを持つんだ。奇跡のようなことだよ』

 子どもの私にはわからなかったが、そういうものなんだろうなと、思った。少しうらやましくなった。早く大人になりたいと思った。

『蜘蛛族との架け橋になれればと、彼女とも話しているよ』

 蜘蛛族。どんな族なのか、全く見当もつかなかった。直接目で見た者など誰もおらぬ。ただ風の噂で、きらびやかで上流気取りの一族だとか、人目を避けて薄暗い場所にむ陰険な一族だとか、いろんな話だけが流れていた。姿もわからぬ相手に、胸がすーっと青ばむ気がした。

『大丈夫だ。俺を信じろ』

 そこまで言われるともう私には何も言えなかった。

 数日後、でかけてくる、と言って兄は村を出た。明るい表情やら軽やかな足取りやらで、すぐに例の女の元へいにゆくのだろうと感づいた私は、(はや)る気持ちにせかされながらも、見つからぬように後をつけた。いくら武道では周囲に追いついていけぬ程の実力足らずとは言え、自分の倍以上訓練を受けている者を尾行するのは容易ではなかった。それでもかなりの近距離まで詰めても気づかれなかったのは、兄が女のことしか頭になかったからだろうな。私は早鐘のように打ち付ける心臓を押さえ、無我夢中で兄を追った。いくつの山を越えたか知らぬ。気がつけばすでに日は傾き、森の中に差してくる光もだいぶ和らぐ時間になっていた。

 もう見逃したかと思ったが、道なりに歩いていけば見つけることができた。すぐ向こうには、見慣れぬ着物を着た者がいる。すらりと背の高い、髪の長い女だ。兄が名を呼ぶと、女は振り向いた。近寄る兄ににっこり微笑む女は、蝶族でも見たことのないようなとびきりの美人だった。何か不思議な力の漂う魅力を備えていた。

 兄は二、三ほど言葉を放った後、待ちきれなかったように女を抱き締めた。私は気恥ずかしさで見ていられず、顔を落とした。心配の気持ち一つで後をつけてきた訳だが、これならもう大丈夫と、元来た道に戻るべく振り返った。

 何かが力なく倒れる音に驚き、茂みからすっかり立ち上がって後ろを向いた。目に飛び込んできたのは、山道に倒れぴくりとも動かない兄と、そこからじわじわ流れ出る血の川だった。あまりに突然の出来事に、生き物みたいに地を這ってゆく紅黒あかぐろい帯の動きを眺めていた。

 ハッと我に返り、兄の元へと駆け寄った。しゃがみ込んでいくら呼びかけても、眠ったように目を閉ざした兄は反応する力をがれていた。

『お前、この男の妹か』

 背中から声が降ってきた。だが私は、目をギュッと閉じて涙を追い出しては、かすむ視界を何度も何度も取り戻しながら、破裂した心を叫び続けた。女なんてすっかり無視だ。命が惜しければ逃げ出せばよかった。悲しみで冷たくなった心臓は恐怖を感じることができず、ただただ鈍く脈打っていた。私も殺されたものだと思った。

 近寄ってきた女が生んだ影におおわれ、私ははじめてヤツを見上げた。思い切り睨んでやった。ヤツは怒りも恐怖も知らぬ、無の表情で私を見下ろしていた。熱のある憎悪や憤怒ふんぬの目で見られていた方がまだ、怖くなかったかもしれない。木偶(でく)のような冷たい眼差しに、全身凍り付いた。

『生かしておいてやろう小娘。赤子の手をひねる真似をしても、何の感慨もきやせぬ』

 女は兄を貫いたと見られる(あけ)に染まった右手を開閉させ、一つの命を仕留めたことを実感しながら呟いた。

『帰って一族の者にとくと語るがいい。私がどれだけ恐ろしい女か』

 そう言うと女は闇の目で呪いをかけるように私を見つめてから、すっと身をひるがえして歩き出した。

 死んだ兄とともに取り残され、前にも後ろにも動くことができなかったが、どんどん深まっていく夕闇に押し出されるようにして森を出た。夢中で追ってきたため帰る道もわからず、三日近くさまよった。行方不明になった我々を捜していた部隊に見つけられ、命辛々からがら村へと辿り着いたのだ」

 胡蝶は悔しさを思い出して唇をんだ。落とした視線の先に、黒い岩肌が口をむんずと結んでいる。

「……忘れやせぬ。ヤツの名は、女瓏」

「ジョロウ」

「ああ。()むべき相手だ」

 胡蝶は押さえきれない怒りと必死に闘っていた。

その3

 なにやら不吉な予感がする。女瓏という、呪縛に包まれた名前。

 蜘蛛族と聞いても体は反応しない。だがもし俺が蜘蛛族だったら、胡蝶とは対敵しなければならないのか。

「ヤツを見つけたあかつきには、たとえ差し違えたとしても、息の根を止めなければならぬ」

 恨みに満ちた声が夜に染みる。小鼻をピクピクと動かし、破裂しそうな気持ちに耐えている胡蝶を見た俺は、笑い声で曇り空を破った。

「おいおい、そんなに神妙になるなよ。自分の命をもっと大事にしろ」

 しばらく反応がなかったので、また言い誤ったと感じた。はたかれることを予測して待っていたら、意外にも真面目な返答が返ってきた。

「お前がどこの村の何族の()なのかはわからぬが、我々蝶族に限らず虫界においては、明日など来ないかもしれぬ。そのような中で皆、たまたま生きてきた。我らにあるのは〝今〟だけだ。ヤツに(かたき)を討てるなら、私は命など惜しくない」

 十六やそこらの娘が、目の前のことになりふり構わず全てを明け渡そうとしている。その瞳は一途で綺麗だが、族長の彼女には未来がある。もっと先を見て欲しいと思った。

「確かに俺も、この戦乱の世にいて、駒のように死んでいく人達を見てきた。生きてることが、幾重(いくえ)にも重なる奇跡の乗数だってこと、身を以て体感してる。

 けどだからってな、命は(なげう)つべきもんじゃない。たった一つの命だって、貴重なんだ」

 星々のまばたきにも負けない胡蝶の瞳はギラギラ輝いている。

「お前の国ではおかしな考えをするんだな。我々は、遥か古代から、ずっとこうやって生きてきた。他の虫の命を気遣っている暇はないんだ。自分の命を守るだけで手一杯で。それはもう皆わかっていること。この世の常識(つくり)がもうそうなってしまっているんだ」

 胡蝶の目は本気だった。たとえ今すぐここにその女が大群を引き連れてやってきて、勝ち目が全くなかったとしても、彼女は飛び込んでゆくだろう。そういう目をしていた。そしてそれが、最も誇り高き振る舞いであると信じ込み、疑う能力を持っていなかった。意気込みが、気迫が、俺の角膜にバシバシ当たった。夜風が俺と胡蝶の意志を取り込んで、急速に谷底へと吹き下ろす。星が今にもはじけそうに輝いている。

「じゃあたとえ百歩譲ってそうであったとしても、俺の中では、胡蝶の命は大切だ」

 彼女は不意を付かれたようにうろたえてから身構え、威嚇いかくの視線で俺を刺した。俺も胡蝶を真っ直ぐに見据えた。

 愛とかそういう意味じゃなく、俺が蝶族とは別の種であったとしても、ともに闘う仲間

として――。

「お前は愚か者だ。仲間の死にイチイチ心を痛めていては、気が()れる。私のように、感情が崩壊するぞ」

「俺は胡蝶の感情が壊れてるだなんて思ってない。確かに乱暴だけど、みんなのことを考えるいい族長だよ。戦闘も強いし、顔も悪くないし。自信もてよ」

 口のおもむくままに任せて言ったら、胡蝶はますます反抗的な視線を返してきた。

「何を言っている! これから何があるかわからないんだ。物事に動じない強い意志を持てと言っているんだ! お前は愚かすぎるっ!!」

 俺もついムキになって、

「誉めてやってる時ぐらい素直になれよっ! お前のその(ひね)くれた性格と馬鹿力じゃあ、一生男できねーからなっ!!」

 と大声を出した。すると胡蝶が目頭をびりりと(いか)らせ、本気でキレたのがわかった。

「言ってることが逆ではないかッ! お前に性格のことで文句をつけられるとは、蝶族の長として皆に面目めんぼくが立たぬ! 自分の立場をわきまえて物事を申せっ!!」

 胡蝶のその、自分は偉い、他は格下、みたいな考えが俺は嫌いだ。

「族長の娘だから偉いだなんて思うな! お前俺がいなくてここまでやってこられたか? 無謀で猪突猛進なお前を落ち着かせて守ってやってきたのは誰だ? 蝶族の仲間だけだったら、絶対にお前死んでたぞ?」

「無礼者っ! 同じ族でもない赤の他人を、これほどまでに接してやってきたのは誰だ? 本当なら初めて会った時に殺してもよかったんだ。他族のもたらすものなど滅亡だけだからな。お前は自分の族すら忘れてしまったおかしなヤツだから、不憫ふびんに思って連れてきてやったものを。我々に感謝して当然の立場なのだ。自らの行いを今すぐに悔い改めろっ!!」

「身分だ立場だ、そんなに大事か? 目の前に同じ敵がいるとき、俺とお前は等しく闘う仲間だろ? 年下のくせに偉そうに! その態度が気にくわないっ!」

 熱く燃えさかってゆく口論に冷静な水を注ごうと、説得するように言い聞かせようとした。だが勢いに乗って、(いか)りの突風が語尾を幾分吹き上げてしまった。目の前で胡蝶が、完全なる俺への敵意で目を満たした。

「他族の虫の癖に、私胡蝶に物申すのかっ! 生きる誇りである〝族〟を忘れた虫がッ!!」

 カチンと来た。

「俺は忘れたくて命の次に大事な〝族〟を忘れたわけじゃねぇよっ!! お前に俺の何がわかるんだよっ! 一人じゃ何も出来ねぇ蝶ごときにッ!!」

 言ったこともほとんど覚えていなかった。胡蝶が鬼のような形相ぎょうそうで俺をさげすののしったあと、はじかれるようにして俺達はケンカ別れした。イライラして歩いた。とにかく胡蝶からとんでもなく遠いところまで行ってやろうと、枝を蹴り飛ばし自生するシダなどを踏みつけてずんずん進んだ。時々溜まりかねた怒りをぶっ飛ばすように、山のいただきを轟音とともに吹っ飛ばした。森を通り過ぎて広い場所に出ると、八つ当たるものが何もなくなるがために、ますます苛立ちは募った。無意識のうちに足は森の奥へ奥へと突き進んでいた。

 切り立った崖の上に出、途切れた道の先に白む群青の空と一番星とを見つけた時、俺ははたと、自分が一人だと気づいた。胡蝶に悪いという後悔はちびりとも浮かばなかったが、いくら進んでも先に答えが見つからないことで自分でも知らない間にストレスがかかっていて、それで今泣いてるんだと思っていた。

その4

 太陽の腕にまぶたをノックされるまで、すっかり眠り込んでいた。起き上がって見れば天晴あっぱれいい天気、大変よく寝た。久々に夢も見ない程ぐっすり眠れたもんだ。

 隣にあの言うこと聞かずの娘はいない。それだけで開放されたような気分だ。ヤツが敵に襲われ、泣きすがって来ない限り、助けてなんてやらない。

 一人をムチャクチャ楽しんでやる。

 すべてが俺の思うまんまだ。すっと手に力を込めて引き寄せると、梢が絡み合い緑の絨毯じゅうたんを敷き詰めたハンモックへと早変わりした。一度これがしてみたかった。一蹴りで体を宙に浮かせ、茂みの上に腰掛ける。贅沢に背伸びをして緑のアロマを吸い込んだあと、日光に満たされ葉のシーツに身を預ける。……なんていい気持ちなんだ。ひとひらひとひらから、活力が流れ溢れてくるようだ。思えば胡蝶がいるときは安心して寝たことがなかった。隠れみののように自分の体を自然に溶け込ませ、しきやからに見つかっても攻撃を受けないように周りにまあるく保護膜を張った。小さな地球になった俺は、うっとりと目を閉じた。

☆☆☆☆☆

 胡蝶はイライラして山の中をさまよっていた。すばしっこくてせかせかしている彼女の後ろを、部隊が慌てながらついていく。男達でも理解できないほど深く歩きにくい茂みをかき分けて進んでいた。薄紅は既に隊から大きく離れてしまっている。

「あの野郎!」

 辺り構わず大声で怒鳴り散らしながら、胡蝶は道無き道をゆく。追う男達も一苦労である。

「お前ら、遅いっ!」

ピリッとした顔で振り返り声を荒げる胡蝶に、男どもはやれやれといった様子だ。

「お(かしら)、何もこんなところを行かなくとも、向こうに山道があったではないですか」

「いつでもどこでも訓練だ。こんなところで弱音を吐くような武人ならいらぬ!」

 胡蝶の我がままはいつものことだが、先頭の数名は呆れ返って立ち止まった。

「もっと大人になるべき年を……」

 小声で漏らした呟きも、バギバギと大きな音を立てながら前進する胡蝶の耳にはなぜか入る。

「うるさいっ! 元はと言えばサイジョウヨシヒトが狂った考えなんかしてるからこうなるんだ!」

 誰もが八つ当たりだと認識していた。声には出さなかったが、ある者は不思議な(ちから)を持つ男を失ったことを惜しみ、ある者は時間が経てば落ち着くだろうと踏んでいた。ほとんど休憩も取らずに部隊は進み、葉の隙間から見える空も黒く染まり始めていた。唇を尖らせヤケになっていた胡蝶は、叫ぶだけ叫んだ後は無口だった。

 気づけば目の前に大きな門があった。赤いうるしで綺麗に塗り上げられ、ツヤツヤと輝きを放つ巨大な門だ。入り口のずっしりした扉には黒い鉄製の(かんぬき)がかけられ、奥の世界への通り道を厳重にふさいでいる。どこにも違和感はない山道だったが、いつの間にこんなどでかい門が現れたのだろうか。

 ふと振り返れば、ついてきていたはずの男どもがどこにもいない。静かに沈んでゆく辺りの景色と謎の門に、かすかに不安をかき立てる風が吹いてくる。

 それでも胡蝶は目前の門を睨み付け、恐れることなく足を踏み出した。失うものなんて何もない。自分が蝶族である誇りとともに、胡蝶は立派に闘い遂げる覚悟を噛み締めた。

 まるですべてを見ている生き物であるかのように、無人の門は自動で大きく奥に開いた。胡蝶は不思議にも思わなかった。ただ自分の(かたき)がそこにいるかもしれないという期待といつ襲われても()り返すという決意とが、心をきりりと引き締める。

☆☆☆☆☆

 夢だと思う。だが起き上がったらほとんど忘れかけていた。気にしないようにした。

 体を起こすと澄み渡った星空。朝間から寝ていたために、一度起きたら寝付けないほど目がえてしまっている。大きなあくびを一つして、うるんだ目に星がにじんできては強く差した。いつ見ても、時を忘れてしまいそうなほど美しい、新鮮な光を宿した藍色の海だ。

 宝石を散らしたとは、よく言ったものだ。宇宙が生きている。星の一つ一つが息を吸い、吐いては真っ直ぐな光を運ぶ。銀河に飛び出していってしまいそうになるくらい、吸い寄せられる。あらゆる星が自分の個性に自信を持って様々にきらめき、心を誘う。こぼれた溜め息を夜空が吸い上げ、ますます深く透明度を増していく。

 今はもう、元いた世界を思い出せなくなってしまったけれど、あれを星だと認識するのだから、同じものを見たことがあるに違いない。だが、こんなに綺麗には見えやしなかったはずだ。これほど心は澄み、感情の洗われる気持ちになったことなど一度もなかったのだから。

 目の奥がツンとする。俺はどこから来たんだろう。族さえ見つかれば行くべき場所はあるもんだと思っていたけれど、受け入れてくれるだろうか。俺は記憶を取り戻すだろうか。

 このまま、一匹狼になってしまおうか。ずっと孤独を引き連れて。俺の(ちから)さえあればなんでもできるんだから、放浪したって大丈夫だろう。

 けれども夜空を見ていると切なくなる。こんなに美しい空を感じてもなぜ、言葉に詰まるような寂しさを感じるんだろう。

その5

 大きなやかたを迷うことはなかった。行くべき通路にはご丁寧に()(とも)され、道筋を暗示している。胡蝶は表情を緩めずに、自信と気迫に満ちた足取りで奥へと進んだ。

 どれほど歩いただろうか。訓練を積んだ者にとってはたいしたことはないが、数時間は足を止めずに来たはずだ。巨大な広間でその道は尽きた。

 真っ赤な絨毯が遥か向こうまで敷かれている。足を踏み出せば、胡蝶が目にしたことのない明るい灯台が見えないほど高い天井からつるされ、豪華な部屋を盛大に照らしていた。ここが建物の最深部だろうか、明かり取りの窓などどこにも見あたらない。丸形の部屋の壁にはいくつもの扉が宿のように並んでいるが、今はぱたりと閉ざされたまま開きそうな気配はない。その一枚一枚の扉からも、胡蝶が今踏みしめているような絨毯が真っ直ぐ中央まで伸びている。長く続く、金色に縁取られた高級な道を進んでいくと、玉座で待ちかまえる女が一人、薄ら笑いを浮かべて胡蝶を見ていた。金を多分に使っていると思われる立派な椅子に長い足を組んで腰掛け、肘掛けに乗せた腕で頬杖をついて、胡蝶にも負けない悠然とした態度で待っている。すぐ横のテーブルにはの長いグラスとボトルが置いてあり、血のように真っ赤な液体が注がれている。

 胡蝶は女の顔が見える程度の十分な間合いを取って立ち止まり、ずっと上に見える女を睨み付けた。

「ようこそ」

 女はつやのある声で言った。

「私に用があってここまで呼んだんだろう? 訳を話せ」

 広々とした空間に、胡蝶の力強い声が響く。

「相手が誰であってもその勝ち気な性格は変わらないのね」

 性格のことを言われてムッと来たのは、俺のことがあったからだろう。

「お前に言われる筋合いはないんだ! お前は何者だっ!」

 女は笑って胡蝶を観察したまま、返事をしなかった。

「だいたい、敵だという予測はついている」

 忍ばせている短剣をちらつかせ、女を鋭く見据える。だが女は余裕の笑みを絶やさずグラスを手に取り、口元へと運んだ。

「貴様が……ッ!」

 胡蝶の短剣が自分めがけて飛んでくるのを、女はグラスを片手で放り投げて応じた。激しい音とともにグラスは粉々に砕け、ぶつかった短剣は的を外れて王の間から伸びる階段の下に転がった。

 裾の長く動きにくい着物でもって胡蝶の攻撃を防ぎ止めるとは、やはりただ者じゃない。胡蝶はもう本気を以て女に討ってかかろうと床を蹴った。落ちていた短剣を素早く左手に携えることに成功し、その勢いで階段をはじき上がった。

 止まったまま動こうとしない女は、よく見れば一城をも傾ける程の美人である。(あで)やかに整った女の顔を穿(うが)とうとした瞬間、何かに強烈な勢いで跳ね上げられ、胡蝶の体は宙に浮いた。

 カシャーンと地面に二つの短剣が落下した。胡蝶は高い天井に紐のようなもので釣り上げられていた。突如現れた白い紐は天井の端から伸びていて、胡蝶の全身を縛り上げて離さない。ハンモックのように吊された胡蝶は無防備でやられたも同然だった。

 だが、女はゆっくりと椅子から立ち上がり、ドレスのような華々しい着物をひらひらさせて階段を下ると、反動で手放された胡蝶の短剣を二つ、宝物のように手に携えた。原始的なものを観察すべく、族の紋様のほどこされた短剣を眺めたあと、再び階段を上って机の引き出しに仕舞った。

「畜生! 貴様!!」

 体をするたびに、その縄はぐいぐいと体に締め付けて苦しくさせる。

 女は胡蝶を改めて見つめた。敵だとすら思っていないように落ち着き払った様子で見つめる女に、胡蝶は悔しさを押し(とど)められなかった。

「お前が……」

 胡蝶は眉を(ひそ)めて涙を滲ませた。

「女瓏だろう」

 女ははいともいいえとも言わなかったが、含み笑いを見て胡蝶は確信した。

 ああコイツが……。ずっと忘れもしなかった憎き(かたき)だ。コイツを殺すためだけに、何年も厳しい訓練に耐え、数えきれぬ程傷を負い、様々な所へ赴いては情報を集めて探し求めてきた。だが会って間もない時間で、こうして自由を奪われてやり返すこともできぬ。なんと不甲斐ない……。

 胡蝶の悔しさが自分のことのようにひしひしと伝わって来る。胸を激しくぶつような痛み。本当に自分のことのようだ。……自分……?

 煌びやかな王室や美女の麗しい横顔、空中に吊された胡蝶の敢えない姿が次第に薄くなってゆく。白く頭の奥底へと断片として砕けていき、夜の気配を肌に感じて俺は起きた。

 全部夢だった。だがこれは夢じゃない。俺の脳内が胡蝶の波長を受けて映し出した、現在(いま)の映像だ!

 寝静まった森を、俺は走った。心がリンクしている。胡蝶とあの女がいる場所がなんとなくわかる。

 だが次第にその感覚は薄くなっていくのを感じていた。胡蝶だ。胡蝶の意識が遠くなっていってるんだ。時間がない!

 こんな超能力さえもっていなかったら、俺は今も心地よく眠っていたはずだ。それを奇怪な夢でぞっとさせられて、たまったもんじゃない!

 それでも急ぐ足は齷齪(あくせく)していてきちんと地も踏めず、腕はかすかに震えているようだ。あの我がまま女のために気づけば必死になって助け出そうとして……。ムカツクけど焦る全身(からだ)は駆け抜ける今を生きているということに満ちていて、こんな状況なのに爽快に、全力で走った。

その6

 動きを封じられて反撃するどころか、抜け出すこともできない。両の腕はベタベタする綱に力強く巻き取られ、どうにも動かない。こうなったらもう生死の間の境など曖昧あいまいで、ほとんど消えかかっているようなものだった。

 物理的に脱出は不可能。これを抜けきることができるとすれば……。やはりアイツの術しかあるまい。胡蝶は一縷(いちる)の望みを捨てきれなかった。

 死ぬ気でここに足を踏み入れた。自分は負けて、もう結末を知ったのだ。惜しむものなど何もない……はずなのに……。

 アイツの顔が浮かぶ。胸がかき乱されるほど懐かしい。遠く昔に会ったきり別れたような、不思議な時の流れが分厚く二人をへだてている。

 命を惜しむ伝統など虫界には存在しない。おかしな風習を持つヤツの族では、命を尊ぶという。捨て駒のような一つ一つを。そして私の命を、ヤツは「大切だ」と言った。いつでも死ねる覚悟で身を覆った私を。アイツの目、本気だった。

 無性に声が聞きたい。おかしなものだ。

「待っておろう? あの男を」

 じらすような女瓏の言葉に、胡蝶は唇を閉ざしたまま目を丸くした。

「ふふ。わかっているさすべて。不思議な力を持つ男を連れているだろう。そやつなら助けられると思っているんじゃないのかい?」

 胡蝶は体を動かして抜け出そうと試みたが、やはり堅い綱は小さく揺れたにとどまったのみだった。辛そうに目を曇らせ、胡蝶は口を開いた。

「あいつは助けに来ない。ヤツは……、蝶族ではないからだ」

「ほぉ」

 ファーのついた扇子を口の前でゆったりと舞わせ、女瓏は胡蝶を締め上げている喜びに快感を覚えていた。しばらくそうしていた後、女瓏は扇子を閉じて胡蝶に背を向け、優雅に椅子へと歩き出した。胡蝶はここぞとばかり全力で暴れてみたものの、粘液の染み込んだ綱はますます彼女の体を締め付け、動きを堅くさせていった。

「だが、あの男はやってくる」

 女王のごとく椅子に腰掛け、天井に張り付けられている胡蝶をオブジェのように観覧しながら、女瓏は鷹揚おうようとワインを口に運んだ。

「くだらぬ男女の繋がりの糸目すら、切れぬ種族らしいからな」

 胡蝶にも聞こえない小さな声でぽつり呟く。

「アイツには構わなくていい。食用に(きよう)するなら私を殺せ」

 最後の力を振り絞って訴える胡蝶の喉へ、新しい糸がぐるぐると巻き付いて締め付けた。苦しさで喘ぐ声も次第に出なくり、意識すら細くなってゆく。

「お前を殺しても目標は達せられぬ。それよりもあの、謎の男を喰らえばどれほど我らが血肉となろうか。フフフ。久々に体を動かす戦いになるかしら。楽しみでゾクゾクすることよ」

 とうとう胡蝶は目を閉じた。静寂せいじゃく(たたず)んだ大広間に、女瓏の危険な策略が(うごめ)いていた。

その7

 完璧に道に迷ってしまった。胡蝶のヤツ、こんなに深い森なんて散策していたのだ。密林ではないか。

 まるで人の通れそうな隙間などない森だったが、大部隊が通り抜けた(あと)が残っていて、そこに道を切り開いて進んでいった。ルートを頭に描くだけで、俺の進もうとする先にある葉はオジギソウのようにパタパタと頭を下げ、邪魔になる枝は観音扉のように向こうへ戸を開いて案内し、地面から生える強梗な雑草はかしこまってひれ伏した。だが森の奥へと進むにつれて、通ったと見られる痕跡が次第にわかりにくくなっていった。徐々に部隊から武人が離れていって、いつしか胡蝶一人だけが突き進んだのだろう。あの小さい体が抜けたと思われる幹の合間がかすかに確認できる。その進み方に迷いは見られない。やはり胡蝶が、と思うとなぜか心臓が生々しく呼応した。

 そして全くわからなくなった。

 ここだと確信できる場所すら見つからない。四方八方を同じ緑に囲まれて、お手上げ状態だった。

 やむなく俺はその場に倒れ込んだ。一日中休む間もなく不思議の術を使っていたことはなかったため、気づけばヘトヘトだった。術は全身・全神経・全精神を使って起こしているものだと改めて理解した。

 どれだけ時間が経ったのだろう。そのまま眠ってしまったようだ。

 見上げれば真っ暗で夜だと知ったが、すぐ奥に光が見えた。その方向へと進んでいくと、人の往来が感じられる街道に出た。

 どうやら宿場町のようだ。やさしい蝋燭の明かりがいくつかの窓から漏れていて、莫大な疲労と不安に襲われていた俺を包み込んでくる。どの扉を開けようか迷いながら歩いていくと、向こうにひときわ大きな旅館があった。

 棒になった俺の足は、煌々こうこうと明かりを灯していたその建物に向いた。一歩一歩両足を押し出して辿り着く。門前にはすばらしく美人の娘が数名控えていて、休みたいことを告げると、上品に微笑んだ。娘は外門を開けてくれ、丁寧に俺を中へ通した。

 敷地の中に踏み込むと、百をも超えるとも思われる娘が一斉に座礼した。そのうちの十名ほどが立ち上がり、驚く俺を中央の建物へと案内した。

 見上げるのも首が痛くなるほど天高くそびえる館だった。大樹のように空に伸びる建物は、黒々と光沢を伴って夜闇の中に浮かび上がっている。その周りを、金の装飾が施された手すり付きの廊下が取り囲み、最上階まで蔦のように巡っている。遠くからでもそれとわかる巨大な入り口。そこへ続く、広いきざはし。宮殿のような見事な造りに圧倒された。

 美人の娘らに率いられ、入り口の扉をくぐり抜ける。中も案の定広く、広大な宴会場のホールや畳部屋がたくさんあった。だが、どこの部屋も抜け殻だった。

「どうぞこちらへ」

 通された部屋はとりわけ大きな和室で、部屋の両脇には何人もの侍女が座礼した状態でずらりと並んでいる。真っ直ぐ正面の突き当たりには一間ひとまが用意されていた。娘達の花道を歩いていくのは異様に緊張したが、歩を進めた。先へ進むに連れ、一番奥のの様子がくっきりと見えてきた。立派な机と座椅子が設けられ、その一席で待っていたのは一人の美女だった。豪華な空間の演出に、自分へのもてなしが最上級のものであると知る。

 女は俺と目が合うと、この上なく麗しい笑みを浮かべて言った。

「はじめまして殿方。お名前は何と申すの?」

 飛び抜けた美人であることは見た瞬間から否定はしないが、この女の格好。投げ出すように重ねられた太腿は見事に着物の合わせの端から出て丸見えで、頬杖をついて傾いた上体の襟元など構わぬ様子で(はだ)け、今にも滑り落ちそうな肩口など、応援してみたくなる。いやここまでされるともう、俺がヘンタイだどうこうではなく、向こうが仕掛けてきているのだ。整いすぎて見つめているのも恥ずかしくなる顔から視線を逸らしても目のやり場にも困るので、生足も見ていられない、結局胸元しか残っていない。反則だ。

「……義人」

 自分の発した声が恐ろしく異様なトーンになってしまった。突っ立っている足の裏が()る直前。なんども情けない。女は慣れた様子でにっこりとした。口紅が明かりを反射して赤く光った。

「そう、ヨシヒト様とおっしゃいますの」

 女は真っ赤なアイシャドウをした魅惑的な目をうっすらと開けて、意味ありげに言葉を続ける。

(わたくし)の名は、オミナエシ」

「何族だ?」

 好待遇に驚いた反動で、(いぶか)って問いただす。

「そんなこと、ここではどうでもいいことですわ」

 女は愉快そうに笑い、そばに置いてあった徳利とっくりを手にして口元へ運んだ。

「あなたこそ、何族のお方ですの?」

「……わからない」

「フフ」

 隠していると思われたに違いない。女は冗談を受け止めるように、穏やかに表情を緩めた。

「本当にわからないんだ」

「あら」

 オミナエシは目を見開きまばたきを一つして、また(つや)やかに笑った。

「それは困りましたこと」

 一番胸にガンとくる言葉。俺は無意識にもこの女を睨んでいた。

 だが――。あまりの美人で、肌や素足が綺麗すぎて、いつの間にか女にムッとしたことも忘れていた。ぼんやり惑わされるような不思議な感覚に、自分の感情も宙に浮いてふわふわしている。眠くなりそうなとろっとした心地よさが俺を襲い、目の前の女をたとえようのないくらい艶美に映し出していく。夢ならここで意識までなくなるのだろうが、現実の今はこのなんとも言えない快楽にひたるだけ浸ることができて、言葉を使って表現しようとすれば、幸福だった。

 オミナエシは徳利を手に据えて椅子から立ち上がり、見惚(みと)れたまま突っ立っている俺のすぐ脇に来ると、まとわりつくように腕を絡ませながら座らせた。独特の香水が俺をふわりと狂わせる。何の警戒心も疑惑も浮かばず安心しきったのは、極度の疲労も手伝ってのことかもしれない。そして、すぐ傍にある美女の笑顔に、落ち着ける室温に、差し出された酒に、何かを考えるという面倒くさいことをすっかり放棄してしまった。残されたのは極楽の心地。自分がいた世界の高級な飲み屋(もちろんあの性的魅力溢れる名前など忘れてしまっている)でさえ、こんな上等なサービスはなかったように思う。ここでは、自分が心から求められているという感覚を強く感じることができる。オミナエシが俺一人のモノである時間がはじまる。もう何もいらなかった。

その8

「飲める口ですのね」

 もうすっかり酔っていて記憶もとぎれがちだった。恋人のようにり寄るオミナエシに見上げられると、得意になって手にしたさかずきを次々にあけた。すると嬉しそうに彼女は酒を注ぎ足すものだから、酒に強い俺でも出来上がるまでに時間はさほどかからなかっただろう。

 さらに、酒に加えてもう一つ酔う要因が――。やわらかくなった体でしとやかに肩に頬を近づけ、酔った吐息を吐かれれば、興奮せずにいられようか。俺はオミナエシの(うなじ)に手をかけて引き寄せると、彼女の頭を自分の額にくっつけて彼女を見下ろした。上下する肩の呼吸に合わせ、美しく整った彼女の睫毛がうつろに上がったり下がったりを繰り返している。

 ゆっくりと背中に手を回せば、彼女は大人しく俺の胸の中に頭をゆだねてきた。無防備に体をもたせかけられると、ますます体が熱を発した。

 このまま眠ってしまいそうだった。今寝たら極上の心地だろう。すべてを彼女に預けて目を閉じる。しかし、オミナエシのまだ酔っていないらしい挑戦的な目が俺を見上げた時、突然目が覚めた。脳の中にくるくると、これまで外に押しやっていたものが吸い込まれてきて、徐々に酒を飲む前ほどに冴えてきた。しまいには体がピリピリと何かを嫌悪し出す。

「どうなさいましたの?」

 オミナエシが俺の背中に腕を回そうとした。その瞬間脳に見えた。網に巻き取られ締め付けられている胡蝶の姿が。

 反射的に彼女を遠ざけ、反動で酒杯やら徳利やらをひっくり返した。何か生き物ではないひょろ長いものが俺目掛けて襲いかかってきたのを察したが、実際それは姿を現さなかった。目の前の女はくやみ顔で俺を見ている。この女が今俺を襲おうとした白いものの動きを止めたと直感する。言われなくても理解していた。緊張した部屋に俺の勘が冴える。

「女瓏か」

 オミナエシは愛情のない冷えた目で俺を睨んでいる。バレたことを隠す気はないらしい。

 控えていた女達はいつの間にやら姿を消していたかと思えば、上のふすまや天井などから襲いかかってきた。すべて感覚だけでさえぎることができる。護身用の短剣をとおと鳴らさぬうちに、侍女達はクノイチみたいな素早さでその場から消えた。

「やめておけ。ただの男ではない」

 誰もいなくなった部屋に、魔女のように低く呪われた女瓏の声が響く。これは普通の戦いではすまされないという恐ろしい予感が脳裏をよぎった。

「胡蝶の元へ連れていけ」

 凄んで言ってやると、女瓏は険しくしていた表情を崩してフフと笑い、

「ヨシヒト様に隠し事など通用しませんものね」

と、奥の間の後ろにたたずむふすまを開けた。向こうに見えたのは、広大なダンスホールのような場所だ。ずっと先まで真っ赤なカーペットが走っている。女瓏はふすまを通って赤い道を振り向くことなく歩いていく。俺も少し距離を置いて、彼女の後ろをついていった。刺してやろうかという考えが浮かばなかったわけではないが、こんなに堂々と背中を見せられると襲うに襲いきれない。逆に、あの忍者みたいな女達は常にすきを伺ってるだろう。自分がいつ狙われても応じられるように、身構えながら歩いた。

 女瓏は真っ直ぐ中央の間に向かった。階段を上り、女王の証である玉座に腰掛ける。そのとき見つけた。ちょうど女瓏の頭上、遥か高くに吊るされた、痛々しい胡蝶の人身御供ひとみごくうにされた姿。

「胡蝶っ!!」

目を閉じていた胡蝶はすぐに俺の声に反応した。

「サイジョウヨシヒトッ!!」

 苦しそうにむせったが、彼女の声を聞いてだいぶ安心した。

 そして同時に込み上げてきた。その下で優雅に座る女への怒りが。

「女瓏。別に俺はお前に直接恨みがあるわけじゃない。だが胡蝶を離さないなら、俺はお前と闘わなければならない」

 女瓏は微笑みを浮かべて俺の言葉を聞き流し、すぐ傍にある小さな棚の上に置いてあるワインを口にした。

 わかってはいたが、やむを得ない。

 短剣を長く伸ばして細長い剣にしてから、一蹴りで女瓏のところへ跳んだ。ヤツの鋭い目が俺を捉えようとした瞬間に女瓏を突き刺した。武器もなかったため一撃で仕留めたかと思ったら、女瓏は着物の裾に隠れていた鋭い爪で俺の刀を制していた。

 これまでの虫と違う。

 と、思った瞬間に寒気を感じて退いた。身を引いたその場所に白い綱がメチャクチャに叩きかかったので恐ろしさに(すく)んだ。全力で絨毯の上を転がり下がると、自由自在に空中を飛び交う白い紐はギリギリのところで空気を掴み握り潰す。刀が蛇のように絞め殺されて砕けた。応じる武器を破壊された俺はかなりの間合いを置いて立ち止まり、身構えて女瓏を睨んだ。

 勢いよく飛びかかって戦えない何かがある。手に汗握る恐怖をはじめて実感している。なんだろう、術さえあれば何も怖くないはずなのに。

 手の震えをぐっとこらえ、冷静に脳を働かせようと努めた。まずやるべき事は……。

 考えさせまいとするかのように、女瓏は鋭い爪を飛ばしてきた。掠めるほどの近距離で躱すと、床に突き刺さった爪の切れ端はジュウと音を立てて床を溶かしてゆく。焦げ臭い強烈なにおいが鼻を襲い、思わず口を塞ぐ。これは臭素、そしてあの爪には、毒か。

 蹴る仕草で床をほっくり返し、毒に染まった床を地中に沈めた。あんなものが近くにあると思うと容易に動けない。

 道具も使わずにあたりの物を自由に動かせる術を目の当たりにした女瓏は、標的に間違いはないと確信したようだ。また右腕を振りかざし、遠く俺に向けて毒爪を勢いよく飛ばす。とてつもない再生力に突っ込みを入れる暇もなく上空に飛び立って逃れた。少し遅れて女瓏も床を蹴ると、なんと俺と一緒に飛び上がったではないか。ハッとした俺に毒の液が吐きかけられ、咄嗟に腕で身を覆った。ほぼ無意識のうちに作った保護膜がなかったら、毒に(おか)されていたはずだ。女瓏も俺の野生の勘みたいなのに感服したようで、一瞬の隙が出来た。迷わずすぐ傍にあった胡蝶の縄に術を伴って触れた。

 目にも見えない細かな振動を一気に送ると、胡蝶を縛り付けていた縄は紙粘土のように木っ端微塵に砕け散った。

 そのまま俺は床に着地し、落ちた胡蝶の身体も落下の衝撃を緩めて着地させる。

 まず一安心か。

 無論目の前にはまだ戦いの手を緩めようとしない女が俺を睨んでいる。戦闘を避けて通ることは不可能だろう。

「すまぬ」

 背後に弱々しいかすれ声を聞いた。耳慣れぬ胡蝶からの謝罪に、びっくりして振り返ってしまったほどだ。彼女はひどく体中を痛めていた。

「安心しろ胡蝶。俺のワザを以てすれば、敵なんていないって思い知るさ」

 内心ヤバイと思いながらも、そんな言葉を放ってしまった。俺も胡蝶の前では強がりばかりかもしれない。

「ああ、そうだな」

 また意外な言葉に、気持ちを整えるのに苦労した。遅いだとか騒がれて当然だと思っていた。よっぽど弱っていたのだろう。声にも迫力がない。

 何とか立ち上がってはいるものの、力ない胡蝶の健気けなげな勇姿に見入った。

 いざという時に蝶族の仲間はいない。唯一近くにいる俺には、同族でもない彼女を助ける義理はなかった。

 だが迷いはしなかった。

 族の(しがらみ)のない俺だからこそ、何のこだわりもなく彼女の肩をもてる。守るべきものがあれば、立ち向かっていくのに恐怖はいらない。両手の震えも勇気に変わる。

その9

 女瓏は既に椅子に深々と腰を降ろし、頬杖をついていた。実につまらなそうだ。

 女瓏は玉座から立ち上がり、俺らを見下ろした。非の打ち所のない完璧なスタイルの彼女は、モデルのようにすらりと背が高かった。トウヨウフウのメイクに、和の着物が異様に似合っている。階段の脇にある大きな二つの鐘は、何と言ったか。すべてが一緒ではないが、俺は以前この国によく似た国を知っていた。確か隣国だ。現代ではなく、遠く昔の……、本の中にも出てくる……、四角い板の中にも見た……。記憶が嘘みたいに崩れ落ちて流されてゆく。急スピードで俺から離れていこうとするものをもう引き留めることはできそうになく、唇を噛んで見送るしかなくなってしまった。

 俺はゆっくりと深呼吸をすると、目を凝らして女瓏を見つめた。

 今見ているものを信じるしかない。何を失っても、俺が感じる世界だけは確かにここにあるから。なぜか涙が込み上げてくる。でも振り切って〝現在(いま)〟を生きたい。張り詰める緊張、胡蝶の心拍音、女瓏から流れてくる香水のにおい、俺の中に宿る不思議なパワー。最初は理解できなかったけれども、今は痛いくらいに俺は虫界(ここ)に居る。()め込まれた世界の一部。願ってなんていなかった。だが生きるんだ。数多(あまた)の虫のうちでたった一つの生命だったとしても。

 女瓏の視線は、真っ直ぐ胡蝶に向けられていた。

「お前、男なんて信じてるの? 軽率けいそつ不埒ふらちな男どもを」

 一歩、一歩、俺達を恐ろしい気配で追い込みながら近づいてくる。彼女の背後に強大な闇を感じた。この巨大な館でも入りきれないほど邪悪な。狂気に満ちた。

「兄は違う! 貴様の思うような男じゃない!!」

 胡蝶が叫ぶと、女瓏は静かだが言いようのない恐ろしい迫力を伴いながら言った。

「同じだよ。男などみんな同じ。自らの寂しさや手持ちぶさたをを紛らわすために女で遊び、飽きればゴミのように捨てる。そしてまた気分一つで別の玩具(おもちや)を探す。ふふふ。女なんて、暇つぶしの遊び道具にしか感じていないのさ」

 女瓏は階段を下り終え、俺達と同じ床に足をつけている。一七五センチの俺とさほど変わらない。胡蝶が可愛く見える程の高さだ。

「お前……」

 胡蝶は悔しさで歯ぎしりをしているが、飛びかかるには恐怖を感じさせる程の威圧感に打ち勝てない。女瓏は漆黒の表情で冷たい唇を開いた。

「私を裏切った数々の男達。私はそれでも生まれ変わった気持ちで別の男を愛し続けたさ。

 バカ正直に。全霊を注いで。

 そんな私を、男どもは虫けら同然に捨てた。気持ちの全てをして慕っていたものをぶち壊された私の気持ちがわかるかい。

 艱難辛苦(かんなんしんく)輾転反側(てんてんはんそく)の日々。

 私は悩み、思いあぐね、心をかきずり回して狂いそうになりながらもこの身一つを長らえ続けてきた。出口も見つからぬ途方もない繰り返しに、もう何もかもが嫌になり、人生を捨てた。まともに飲めなかった酒におぼれ、悩み暮れるうちに私の悩みは底知れぬ恨みへと変わっていった。そして残りの人生、私をこれほどまでに苦しめた男という存在への復讐に生きることを誓い、遊郭に入ったのさ。

 そこではじめて知り合った男と、メオトのちぎりを交わした」

 目を細め、それまでの勢いを殺す悠長な口調で放たれた言葉に、俺も胡蝶も頭の上に疑問符を立てた。二人の表情を見取った女瓏は冷笑する。

「フフ。夫かい? 遊ぶだけ遊んで、喰い殺してやったさ」

 言葉を失った。この怖いくらい美しい女が……。だが心臓を揉み潰して来るような艶笑えんしょうが真実だと語っていた。

「あのときの男の味が忘れられない……。食いちぎった後のすがすがしさは絶品だった。

 それからというもの私は、次々に男を()め、殺していった。女としての魅力も上がって、独立してこの館を建てるまでになったのさ」

 女瓏がすかさず着物の袖をバッと(まく)ると、いくつもの(おびただ)しい、気味悪い斑点が、ほっそりとした腕にびっしり張り付いていた。思わず顔をしかめた。

「どれほど恨んでも尽きぬ。恨みを増すごとに、私の体にはこのような斑点が出てきた。復讐の決意の(あかし)。いずれこの斑点が私の体を覆うまで、私は男をいましめ続ける」

 鮮やかな原色の赤や緑、黄や茶色といった奇抜な色が、大きさはまちまちだが手の甲から肩までを覆っている。女瓏が手のひらに息を吹きかけ、するりと綺麗な生足を上からゆっくりとこすると、隠れていた斑点が一面に姿を現した。あまりの気色の悪さにじっと見ていられない。同じ〝人の体〟だという現実に、全身があわ立つ。

「お前にもあろう? このような斑紋」

 そう言って飛ばした女瓏の針が胡蝶の着物の肩を貫く。はらりと切り裂かれたところから白い肩が姿を現した。なるほど。女瓏ほどではないが、確かに灰色のあざが丸くぽつり、ついている。

「お前に兄を殺された夜からだ」

 鼻の頭に皺を寄せて女瓏を睨み、胡蝶は低く呟く。

「ふふ。可愛いものね。私の怨恨には遠く及ばない」

 女瓏は胸元の合わせをゆっくり肩側にずらしていく。見てはいけないという純粋な良心は心臓を激しく打ちつけるばかりで制止する力などなく、目はすっかりあらわになった膨らみに釘付けだった。

 だがすぐに冷たい気持ちに襲われた。女瓏が愛おしそうに見つめる豊かな胸に染み込んで消えそうにない、大きな黒い痣が目に飛び込んできたからだ。赤く縁取られ、巨大な生き物の目玉のようにおぞましく、意思のないうつろな視線が俺らにぶちつけられる。その全てが恨み一つでできているかと思うと、恐怖が縛り付けて来るようだった。

 女瓏は着物の合わせを元に戻すと、右手の長く伸びた爪を見つめた。猛毒の染み込んだ呪われた爪だ。左腕をすっと持ち上げると、後ろでガシャーンと燭台が倒れた。女瓏が操ったと思われる例の糸の連なりが、いつの間にか引き倒していたのだ。俺はその動きを感じることができなかった。

「私はこの体、後悔はしておらぬ。いとも●●●たやすく男は引っかかる」

 この女の行動の意味がわかった。次々と人を殺していくワケ。

ワナを張る●●●●のさ。心のずいまで絡み取り、もがく程に抜けられなくなる。助かりたいと思う焦りが自らをますます縛り付ける恐怖に陥れる。男なんて一網打尽。じわじわと苦しませ、悠然と奴らのタマシイをいただく。

 それがこの(くるわ)。我が住処(すみか)

 女瓏から強靱きょうじんな糸が放たれた。俺と胡蝶は間一髪かんいっぱつでそれを躱す。逃げても逃げても次々に襲いかかってくる白い手下に、先読みする暇すら与えられず夢中で避けた。殺すつもりで容赦なく飛んでくる恐ろしい綱に、術を使おうと考える時間は皆無。際疾きわどく俺らを射止め切れずに掠めていく攻撃の連続に、頭の中ではただ、死ぬかもしれないという思いだけが繰り返し現れては消えていった。額や脇から嫌な汗が滴っていく。手を固く握りしめていなければ存在を吹き飛ばされてしまいそうなほど、嵐みたいに攻撃はやまない。

 女瓏は俺と胡蝶とを相手にしてはいたが、胡蝶よりも遙かに俺を狙って攻撃をしていることに気づいた。その様子は、まるで俺に積年の恨みがあるかのようだ。俺の方は個人的にコイツに対して恨みがあるわけではない。だからどうしても攻撃に積極的になれなかったが、ヤツの俺を殺そうという意気込みを絶えず受け続けていくうちに、防いでいるだけではどうしようもないと感じるようになった。百パーセントの殺戮さつりくの意志に対しては、こちらも倒す気でかからなければなるまい。決意し、俺は合間を見て手に力を込める瞬間を探った。

「素手で応じる気かッ! 武器を出せ武器をッ!!」

 胡蝶の声で無意識のうちに術を使っていた。胡蝶の短剣よりも大きめの小刀を右手に据える。固いものも柔らかいものも一刀両断にできる力のこもった優れものだ。術を使ったことでできた隙に一気に叩きつけてこようとする糸を、瞬時のうちに切り刻んだ。見事にバラバラになった残骸を見て、女瓏はフン、と鼻を鳴らした。

 こうなったら嫌だけれども、戦うしかない。

 俺は再び刀を握りしめると、フウと溜め息で呼吸を整えてから突進した。だが赤いカーペットの上を飛行しているうちに蛇のような紐があらゆる方向から沸いてきて、行く手を遮った。くねくねと踊っていた紐は顔を上げた瞬間、体目掛けて飛びかかってきた。なんとか(すんで)の所で振り切っていったが、とにかく速い。余裕を持って遮ることは全くできない。絶え間なく強烈な糸が叩きつけてくる。一本切るタイミングをわずかに逃したのをきっかけに他の紐が勢いよく絡んでくるのを止められなかった。生き物のように自由自在に動く紐は粘液で剣を縛り上げ、俺の足首を締め付け、腕に喉に腹に、これでもかとばかり巻き付いてきた。粘液はピリピリと肌に染み込み、ネバネバした接着剤をふりかけられたみたいに全身が硬くなって動かない。蜘蛛の糸で締め上げられた俺は、女瓏の創った石膏と化した。

 女瓏がゆっくりと近づいてくる。

 胡蝶が何とか助けようと床を蹴ったが、横から飛んできた白い帯にはばまれた。

 どういうわけか術が出ない。恐怖に押しつけられ、まともに心が動かないからかもしれない。カタカタと歯が鳴った。殺されたらどうなるんだろう……。

 女瓏の瞳は光届かぬ樹海の地中深くに埋め込まれた石のように、黒く邪悪な闇と化していた。俺の生きていたいという健気な望みなど冷酷に飲み込み、なかったものにする。呆然とした。自分が死ぬときは簡単なもんだと思った。

その10

 女瓏の意識がすべて俺に注がれたのを見計らって、胡蝶が蝶舞で俺の周りを瞬時に舞った。反射的に女瓏の爪が胡蝶に向けて弾かれたのを、俺が自分の方へ吸い寄せる。恐怖感が気の緊張を極度に高め、術の正確度を上げていった。女瓏が操る二つのエネルギーをかち合わせ、最小のパワーで最大の破壊力を生み出すことに力を注ぐ。雨のように細かく跳ね飛ばした毒の力で、呪縛に満ちた蜘蛛の糸を切り刻んで抜け出した。胡蝶を抱きかかえ、出来る限りの遠くへ身を引く。不意をつかれた女瓏が唇を噛み、俺を仕留めきれなかったことを悔やんだ。だがたもとから取り出した扇子で自らの勢いを冷ますかのように扇いで冷静さを取り戻す。

 ふと気がつけば、俺は胡蝶を頭ごと抱いていた。怒鳴られるのを恐れて慌てて手を離し、次に飛んで来る言葉、もしくは張り手に身構えていた。

「今回限りは許してやる!!」

 殺してやると言わんばかりの目つきでそう言われた。

「ありがと」

 いつもの勢いが戻ってきたようで、気力が湧いた。胡蝶はそうでなければ!

「オミナエシ様!」

 壁に張り付いている一つの扉が開き、女の蜘蛛が一匹、急いだ様子で入ってきた。戦場の光景を目にしても少しも驚くことがない。女瓏のすぐ近くまで寄ると、告げるべきことを大きな声で表明した。

「蝿族の大群を捕らえてあります。いかがいたしましょうか」

「男か」

「ええ」

 女瓏は「決まっているだろう」と諭し示す瞳を向けた。(なま)めく女蜘蛛は講じる処置をわかってはいても、(かしら)の命令を合図にすべく耳をすませている。

「殺せ」

 殺戮のスイッチが入った瞬間に、足の底から震え上がった。そのたった一言で、一斉に大量の命が失われたように感じた。女が部屋を出て行った後の異様なくらいの静けさ。多くの生命が鳴く声が脳内に反響して頭が割れる程痛い。額を覆っていた手を少しずつ下ろし、よろけそうになる足を踏みしめて女瓏を見る。

 ギラギラ光る瞳の灯火を全て吹き消し、女瓏は気怠けだるく煙を吐くように呟いた。

「いつの時代も、女は我が侭で、男は愚かだ」

 おもむろに女瓏はこちらに視線を合わせ、闇の底から這いずり上がるように邪悪な笑みを浮かべた。恐ろしさで背中にゾッと寒気が走った。

「男など馬鹿な生き物だから、色気いろさえかければどんな虫かて引っかかる。私が射止められなかった虫はおらん。……貴様を除いてはな」

 女瓏の怨念に満ちた目が俺だけを見すくめる。いつまでも目を合わせていては、意識を吸い取られそうな深く険しい目だ。もうヤツの呪いにかけられているのかもしれない。だがその呪いも俺には通用しなかった。彼女の苛立ちが目尻に皺走(しわばし)る。俺が人の命を救う魔法を使おうとして、何も起こらなかった時と同じ気持ちに襲われているだろうか。

「貴様、何族だ」

 女瓏が再び口を開いた。だが俺も答える(すべ)がない。

 なぜ女瓏の万種不問の族に効く魔術(ちから)が通用しないのだろうか。俺も生まれもった超能力で、彼女の術が全ての族の本能に作用し狂わせるものだと把握している。絶対最強の魔力(ちから)が、呆気なく俺をすり抜けていく。

 かつて経験したことのない焦りで女瓏は、魔術にどんどん力を込めていった。限界を超えてもなお、女瓏は止めるどころかますます強い念を呪いに込める。そうしていくうち、放ち続ける術の一部が逆流し出し、彼女自身の〝本能〟の部分にエネルギーが流れ始める。

 不意に胸の内側を何かが横切った。心をしずめて覗いてみれば、胃もたれしたかのようにグッと落ちてゆく重たい感情がある。黒い鉛の正体は女瓏の怨恨だ。誰かに教わることを不要として、俺は直感で自らの能力を察知した。〝その思いに触れることができる。〟勇気を出して手を伸ばしてみれば、ドロッと気持ち悪い感触が素肌を伝う。グイグイ手を押し込んでいくと、固い芯にぶつかった。

 もうたくさんだ……。もうたくさんだと、何度思えばいいんだ。

 一から一重一重心を尽くして恋模様をかさね、その過程でやっと心を許せる人と巡り会えたと思えば裏切られ、心はズタズタに切り裂かれ、脳みそから血を流す程苦悩し、恋の扉を閉ざしても、また私の手を引こうとする者が現れる。迷った私を力強く引こうとするその凛々しさや誠心に、また少しずつ心を許していき、これで最後だと、崖に立って祈るような気持ちで相手を慕う。そして(むご)くも捨てられる。極限の闇に、たった一人、背中を蹴り飛ばされて投げ捨てられるのだ。……叩きつけられた闇の奥底で、なおも悩み、自らのみじめな体をいたわり、二度と恋などしないと、固く心に誓う。そして私を惑わす男。かたくなに拒み続けても、やがて心の隙間に差し込んでくるやさしさと、温かさに負けてしまい、懲りずにまた騙される。

 それを何度繰り返しただろう。何度傷つき心は破れ、息の根も止まる程かと思い悩んだだろう。

 はじめてお会いしたあのお方の、嘘をつくことなどできない澄んだ瞳と落ち着いた低い声が奏でた約束の言葉達を、私は心から信じた。命を捨ててもあのお方だけは愛し続けていこうと誓った。何もかもを犠牲にしても、身分という越えられぬ運命(さだめ)にはむかっても、私はあのお方に付き添いたかった。

 他の伴侶はんりょを捜せ、それがお前の幸せだと、輝やかんばかりの女の手を引いて冷たく言い放ち振り向きもしなかった。その後の不幸の数々。たった一度でいいから、本物の幸せというものを手にしてみたかった……。

 まるで胡蝶の感覚を取り込んだ時のように、女瓏の冷たい胸の内が俺の内部と同化した。

 恐ろしく生々しい。夢だと思えようか。

 俺が女瓏なのか? ……いや、それだけは絶対に違う。

 だとすればこの能力。胸がかき乱される程に同化してしまうこの能力は、なんだ。

その11

 今触れた中心部を強く押しつけると、悲鳴を上げたように感じた。突然女瓏が頭を抱えて(うずくま)り、腹の底から込み上げてきた感情を爆発させた。

「なぜだ。なぜこれほど苦しい思いをしてまで男を愛さなければならぬ……!

 自らの幸せのためか? 弾ける痛烈な武器を抱く危険なものだったとしてもか。

 これが運命だというなら、私は人生などいらぬ。

 どんなに愛を破き放り捨てようとも、そのような献身など初めから無駄だと決められているかのように、愛情というものは無の地から生まれづる。…なぜだ。どうして消えぬ?

 私はもう幸福など求めやせぬというのに。

 なぜ我が身は寂しさを払拭ふっしょくすることができぬ。

 本能なのか? ……いや、私はそんな貧弱な能力などいらぬ。この世を切り裂き、闇夜を喰らう能力(ちから)だけで十分だ。能力は自ら選び、自ら自由に捨てられるものであるべきだ。なぜ捨てられぬ。煩わしい……。

 (しゆ)の繁栄だ? 私はそのためだけに生きてきたのか? この心は? 体は? すべて子孫のためだけに存するのか?

 ならばその子孫達は何のために生きるのだ。蜘蛛族の栄え? 誰が喜ぶ。

 ……ああ憎い。男などがこの世に存在するからこうなるのだ。世界からすべて、食い尽くしてくれるっ!!」

 女瓏は鋭い刀を手にすると、とてつもない勢いで飛びかかってきた。俺と胡蝶の二人を相手にしているのに、全くひけをとらない。次から次へと繰り広げられる攻撃に、俺も胡蝶も防ぐのが精一杯である。間違って爪に触れればたちまち毒されるので、容易に近づくこともできない。

 女瓏の漆黒の瞳。攻撃を受けながら見つめ続け、首を絞められるみたいに胸がきつくなっていく。次々に繰り出される先読みできない女瓏の刃と生命体のように飛び交う糸が、ランダムに俺と胡蝶を狙い竦める。幾度も息が止まりそうな程危うい刹那をやり過ごし、女瓏の刀を大きく弾いた次の瞬間、腹に伸びてきた毒爪を最後まで躱しきれなかった。横っ腹から紅い濁流が吹き出し、逃げようとした弾みで後ろに飛ばされた。腹を抱え立ち上がったが、仕込まれた猛毒で目が霞み、部屋の景色がぐるりと回り始めた。力を失って倒れ込む。胡蝶が驚いて動きを止めたことだけ感じていた。顔の筋肉を動かしたつもりでも声が出ない。蝶舞を止めた胡蝶もすぐさま標的にされ、反撃も出来ぬまま毒を浴びせられた。傍に倒れ込んできた彼女の肩が背中に触れた。痺れた全身はもう言うことをきかなくなっていた。猛毒が血液を伝って体内に行き渡れば、体の内側から細胞を食べ尽くされてしまう……。

「失礼致しますわ」

 先程と同様に女が扉を開けて入ってきた。この、粉のようにやわらかく包み込むような声――。

 俺も胡蝶も、麻痺した唇と手足をどうすることもできない。

 女が早足で近づいてくる。女瓏は既に異変を察知していた。突如現れた女は何も言わずに俺と胡蝶が倒れているところまで小走りで来ると、うつろな二人の目を見つめた。

 容赦のない女瓏の刀が女の体を突き抜けた。口からパッと血を飛ばし、蜘蛛族の衣装で身を隠した薄紅が覆い被さってくる。体内に養殖していた解毒の力を持った粉が彼女の体から雪のように降り出し、辺り一面に舞い散る。解毒粉にすっかり癒された俺と胡蝶は薄紅と入れ替わりに立ち上がった。目下に転がる仲間の姿――。

「薄紅ぃッ!!」

 胡蝶の嘆きが広い室内に悲劇を刻んだ。何度胡蝶が同じ名を呼んでも薄紅は目を開けることがなく、俺は二人を見ることが出来なかった。

 女瓏は俺達から大切なものを奪った喜びで意地悪く笑った。悪霊の目を真っ向から睨んだ。耐え難いほどの怒りの反面、俺もコイツに恨みができたことに感謝さえした。

 手に持った刀を激怒で満たし、俺は女瓏に飛びかかった。胡蝶も続いてほとんど叫びながら床を蹴る。俺も胡蝶も、ヤツに負けない迫力と威力で打ってかかる。俺達が本気を出したことで、女瓏は楽しくてたまらないという顔で笑っていた。それが許せなくてあらん限りの術を使った。壁をぶち抜き、女瓏を押し飛ばして外へ出る。夜気が突き刺す静かな夜だ。魔力を帯びた刀が宙を切る音と、化け物の白い綱が地面を走る音だけが響く。

 蛇のように纏わりつく糸に、体力を消耗していた胡蝶が捕らわれるのに時間はかからなかった。毒爪を辛うじて躱した直後に一斉に襲いかかってきた十六本の糸に、瞬時に全身を縛られる。間髪入れずに彼女の前に女瓏が立ちふさがった。

 咄嗟の出来事に動けなかった。身体全ての自由を奪われた胡蝶の喉を、今まさに刃が貫く。

その12

「女瓏」

 突然の声に女瓏はビクッと大きく体を強張らせ、しばらく胡蝶の喉元に鋒を宛がったまま動かなかったが、やがて力なく刀を降ろした。声のした方を振り返る。

 (しろ)く清純な月の(もと)、一組の男女が向き合った。

 女瓏の奥に立つ男は既にあおく透け、この世の人間(もの)ではないと伺えた。しかしその風采に見る目を奪われ呆然としていたため、そう気づくのにも時間がかかりすぎるほどだった。女瓏がどれほど容姿端麗で、他に類を見ない竜章鳳姿りゅうしょうほうしの男性に惹かれていたとしても、これほどまでだとは想像もつかなかった。光を湛えた三日月の瞳は(まじろ)ぐたびに時を止め、流れる眉は(つるぎ)のように鋭くも、うれいの陰を目元に落としている。抜けるような肌もきっと生前であれば月のように白く、なめらかに夜風を撫で返していたはずだ。風が控えめに彼の髪を揺らせば銀の川となって夜の渓谷を豊潤ほうじゅんと満たした。真珠のような白い羽織に金の袴、足には見事な()(くつ)穿いている。着物の裾から覗かせた両の手は麗しく、戦乱の世に生まれた男のものとしてはだいぶ華奢だが、大切なものだけはしっかりと守れる程度の強さがあった。気品溢れる口元がすっと息を吸うと、夢でも見ているのではと俺は思った。

「この名で呼ぶのははじめてだな」

 まるで辺りの空気が歌っているかのような清らかな声が流れた。低く、落ち着いていて、胸の奥に直接響いてくる振動がさざなみのようで心地よい。風が舞い遊ぶのをやめ、彼の声に耳をそばだてる。それでもにこりともしない冷艶な立ち姿。冷たく割れた夜の境目。

「……黄金(こがね)様」

 哀切な声が漏れる。正面に立つ女瓏に目を移して、またも俺は驚いてしまった。

 なんと清麗で見る者を魅了するのだろう。悲痛に歪める顔がひとときの美しさを彼女に閉じこめ、俺の心は貼り付けにされてしまった。今や女瓏の美しさは誰にも負けなかった。男を色欲で絡め取ろうとする妖艶な雰囲気は消え、一途に愛情を放つ姿があった。健気で、痛々しく、しかし純粋で、あとのことなど一切考える余裕もないような、愛それだけに身を染めている。俺は男として、女瓏が欲しいと正直思った。戦いに身を投じ、強烈で濃いものだけに反応するようになった俺は、そうであれば絶対に女瓏を一人では不幸にしないと命懸けで誓った。

 それでも女瓏は、ただ目の前の男だけに視線のすべてを注いでいたのだった。

 ふっと男が笑みを漏らすだけでも、真似できぬ程の羨ましい微笑だ。

「俺は死んでしまった」

 男はしばし、女瓏の返答を待っていた。女瓏は何かを言わんと幾度も唇を動かそうとしていたが、結局言葉にならず苦しげに唾を飲み込むだけだ。

 泣き出しそうな女瓏の瞳に彼は目を細め、瞼で大きく呼吸をした。しっかりと見開いた目で、強く女瓏を見据えた。

「お前は俺を深く愛した。愛というものに関心をもてなかった俺も、お前の一途な気持ちに次第に心開くようになった。ともに歩いていこうと告げた気持ちに嘘はない。

 だがお前の感情はあまりに大きすぎて、俺一人では支えきれなかった。うまく言葉で伝えることが苦手で、不安にさせたことは数限りなくあったろう。お前はまた、繊細で傷つきやすくもあった。お前の愛情はわかっていたが、気持ちを受け止めるだけのふところがない俺よりは、他の男と結ばれた方がお前のためだと考えていた。結局はああするしか方法がなかったのだ。……誠に申し訳なかった」

 女瓏は支えを失って一気に地面にしゃがみ込むと、泣き崩れた。黄金の言葉からその後に続いた悲しい思い出、そうならざるを得なかった運命の流れ、自分の気持ちと精神の脆さ強烈さまであらゆることに対して、やまぬ雨のように涙を流した。永久に終わらなそうな夜の時間に月が吐息し、夜風が神聖なヴェールをかぶせる。気持ちの狭間に月光は染み入り、震える心を静かに冷やして、言葉をしばらく忘れさせた。感覚だけが強く息づいている。肌に夜が狂おしい程痛く射し込む。

 黄金は静かに女瓏の傍へ近づくと、腰を屈め、両手で顔を覆って泣きじゃくる女瓏を見つめた。体はもうすっかり透け切って見えなくなりかけていた。耐え難そうに眉を寄せると、両腕を女瓏の背中に回して胸の中に抱こうとした。月の明かりに溶かされて彼は、女瓏を抱くか抱かないかのうちに、光の粒となって夜空に舞い上がっていく。蒼い魂はやさしく揺れながら、ゆっくり、ゆっくりと天へ昇っていった。

 一人残された女瓏はその後も長い間泣いていたが、立ち上がると、愛しい者の向かった空を見上げた。動くことのできなかった俺達に、後ろ姿のままぽつりと呟いた。

「私はもうこうなってしまった。元に戻ること、かなわない」

 静かに振り返ると女瓏は俺と胡蝶を交互に見つめ、悲しく染めた瞳で切なく笑った。

 どうしていいかわからず途方に暮れていたが、目の前の女瓏は右手を上げて毒爪をカチリと鳴らした。戦う以外に道はないというのだ。それを見た胡蝶も、また攻撃できると安心してから緊張し、短剣をしっかり握りしめた。俺はもう戦いたくなかった。だが止める手だてなど見当たらなかった。

 女瓏は大きく息をついてから、俺達二人を見据えて地を蹴り跳んできて、毒爪で胡蝶を狙った。間一髪のところで短剣に押し返されても、めげずに再度襲ってくる。いくら弾き返されても、何度も何度も同じように斬りかかった。時折蜘蛛糸も忍ばせてきたが、俺が後ろから術で切り刻んだ。女瓏はそれでも力を抜かない。先程までは一つの方法がダメだとわかれば他の攻撃で不意をついてきたりもしたが、今はまるでそれがなかった。言ってみれば、彼女の戦い方は無謀だった。ひたすら目の前の胡蝶を物理的に突き刺そうとしているだけだった。なんだかその様子は、感情の感じられないロボットのようだったが、テレパシーの使える俺には彼女の心中が嫌というほど伝わってきて、胸が苦しかった。荒々しい攻撃の内側は、空っぽだった。そうしているうちに女瓏は胡蝶を押しつけ先程の広間に入った。赤く昂ぶる床を蹴って女達は争う。女瓏の爪が胡蝶の太腿に痣を作った。胡蝶は女瓏に素早く蹴りや突きを入れた。二人は互角のように見えたが、俺は結末をだいたい予測していた。熱い誓いに胸をみなぎらせた胡蝶と、もう何も必要とはしていない女瓏と。糸が胡蝶を邪魔しないようにだけ注意しながら、終結を待った。

その13

 どすんと生鈍い音がしたので見ると、目の前に返り血を浴びた胡蝶がいた。

「そこがお前の、恨みの(すみか)なんだろう?」

 女瓏はゆっくりと下を向き、自らの胸にある黒く濁った痣が貫かれたことを確認すると、安堵したように瞼を閉じた。

「ああ」

 途端に巨大な地震に襲われ身動きがとれなくなった。建物全体が激しく揺れている。箪笥や食器棚、燭台などが次々と倒れ、床の上で激しく暴れ出した。

 立ち上がることもままならない俺は、片膝をついて飛んでくる皿や扇子を()けながら胡蝶を探した。

「危ないっ!」

 声とともに後ろに引っ張られ、宙に浮いた次の瞬間、飛び散っていた家具やらが円を描きながら急速に吸い込まれはじめた。咄嗟に俺は気流を奪う幕を作り、胡蝶と自らの体を覆った。一秒でも遅れたら粉々に砕けていただろう。何も感じない無重力に体を遊ばせながら、後方からものすごい勢いであらゆる物が行き違いに飛びかかってくるのを見送っていた。見る間の内にぐるぐると飲み込まれていく。その中心に、心臓を一突きにされ、黒い血を流す女瓏の姿があった。後方に飛び逃げるわずかの間に、膝をつき項垂れる彼女の目から、赤い涙が頬を伝うのを見た気がした。

 着地した床を思い切り蹴り付けると、反動で後ろに大きく退()いた。たった今足をつけた床はガラガラと割れて宙に舞い上がる暇もなく、激しい嵐に削り取られていった。女瓏のいた広間は既に跡形もなかった。柱や梁の崩壊が俺と胡蝶をみるみる追い越してゆき、門まで行き当たると大きく弾けた。ずっと後ろから壊れた屋根や大木の破片が大時化おおしけのように俺達を包み、辺りを岩屑や砂埃で埋め尽くした。もう姿さえ見えなくなった胡蝶の、唯一繋がれた右手を強く握りしめる。俺の術は届いているだろうか。彼女の保護幕だけは薄れぬようにと、パチパチ弾ける痛みも我慢して手に魔力を込めた。

 ふと前方からとてつもない勢いで走ってきた大蛇に、思わず気を止めてしまった。周りで暴れていたがらくたが一気に俺を叩きはじめる。その一瞬、時も重力もない次元を泳いでいた黒い〝それ〟は、巨大な闇の腕であるのを見た。俺と胡蝶を冥界へと引きずらんとするかのごとく(わら)いながら、口のような手を開く。目を閉じた。

 弾き飛ばされた衝撃を受けたくらいで、大きな怪我はないようだった。あまりに瞬間の出来事で、思い出すことすらできなかった。立ち上がり、遠くで粉々になった館を呆然と見つめていた。

 女瓏の館から黒い雲が立ち上っている。分厚い黒雲は天を覆い、逃げ場のない俺らを見下ろしている。擦り寄って立つ胡蝶は口を引き締めたまま、まだ何か呪いが残されているのかと煙霧を睨んでいる。

 と、空を埋めていた黒雲はゆっくりと円を描いて女瓏の館上空に集まっていくと、一気に弾けた。今度は俺も対処できず、吹き飛んだ強風に、腕で目を覆うばかりだった。胡蝶が声を上げて俺の肩にしがみつくものの、どうすることもできなかった。

 やがて風もやみ、空はいっぺんに晴れた。満天の星々が煌めいている。

 しんと穏やかな、いつもの虫界(せかい)が戻ってきた。広大だった館の残骸だけが戦乱の様子を現実のものだったと語っている。

 途方に暮れて瓦礫の山を見つめていると、そこから夥しい数の黒い点が四方八方へと走り始めた。紙のこすれ合うような細かな音とともに流れてくる波が俺と胡蝶の足の間をくぐり抜け、瞬時に地面を埋め尽くした。俺らに見向きもせずに、遠く遠くへと駆けてゆく。腰を落とし、波に触れた胡蝶の指の上を、小指の爪程の黒蜘蛛が走ってゆくのだった。

「女瓏の生まれ変わりか?」

 立ち上がり、黒く染まった地平線を眺めて胡蝶が言う。視線を落とすと無数の黒蜘蛛は、力ある限り遠くまでゆきたいと言わんばかり懸命に、無心で地を這い去ってゆく。

「攻撃するか?」

 胡蝶は顔を上げると、幾分冗談めかした明るい調子で言った。その気はないさと笑みで応じた。彼女の着物のひだや襟元に、行き場を見失った蜘蛛が何匹かうろうろしていた。

 蜘蛛が地表を滑り続ける光景を見続けていた。どれだけ見守っていても黒蜘蛛は、何かを象徴するかのように、いつまでも尽きることなく溢れ出ては遠くへと駆けてゆくのだった。

第8章 ???族

オマケ:登場人物ネーミング由来

女瓏じょろう:ジョロウグモ(女郎蜘蛛)から。女郎とは、遊女のこと。女瓏の源氏名?の「オミナエシ」は、花の名前だが、これは漢字で「女郎花」と書くところから。

黄金こがね:コガネグモから。容姿端麗で風格のある名前にしたかったのだけど、カッコいい当て字とかにせずそのまま銘々。

各キャラの名前をどうしても虫の名前と関連づけたくて、執筆当時ググったりして探したんだけど、毎回写真見せつけられるのが、気持ち悪かった・・・。)

オマケその2:四字熟語

艱難辛苦かんなんしんく:困難に出合って、つらく苦しい思いをすること。(出典:広辞苑)

輾転反側てんてんはんそく:思いなやんで、幾度もねがえりして眠らないこと。(出典:広辞苑)

竜章鳳姿りゅうしょうほうし:伝説上の霊獣・霊鳥である竜や鳳凰のように、威厳に満ちた立派な容姿。内面の充実が外面に現れたすぐれた風采をいう。(出典:goo辞書)

当時、漢検やってた影響で覚え立ての四字熟語とかも入れてみたんだけど、振り返ってみるとニュアンスとか使いどころとか微妙にズレてるかも。やっぱこういうのも自然にちりばめられるのがプロなんだろうね。(でもまぁいいや、これも学習!))

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