【面白日本語その2】〝国語力がない〟とは、つまり、〝○○力がない〟ということだ! ~国語力が壊滅的な弟ニャンから学んだ、〝国語力〟とは?~

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筆者
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日本語大好き!桃花です。

でも「国語」って、わかりにくくないですか? 母国語なのに。

今回は、そこらへんについて、ネタ話込みで考えていきたいと思います。

ご注意

私は、学識経験者や凄い考察を巡らせる系の知識人とは無縁の一般人です。こちらの記事はライフハック的な有益情報文ではなく、単なる読み物ですので、あまり真に受けず気軽な感じで読み流してください。

※引用話(事例)はコミカル系ネタ話なので、固くならずに楽しんでいただければと思います。
※国語の勉強方法や読書の方法例つき

まえがき

〝国語〟って何?

国語とは、非常にわかりにくい学問だ。

母国語を学ぶ、という視点からすると、学問の基礎であるところの必修項目と言って差し支えない。

だがその実、これほど曖昧でわかりにくいものはない。頭を悩ませる生徒も少なくない学問である。

(教科名を「日本語」じゃなく、「国語」としたところにも、きっと何かしら意味があるのだろう。)

言葉のルールを学ぶ、といった基礎的なのはおいておいて(それすらも大人でも間違えるくらい難しいとは思うけど)、

  • ひらがな、カタカナ、漢字という3言語とも言うべき、世界的にも高難易度の記号を駆使しなければならない。
  • 正解が1つでない(のが後半多くなってくる)。
  • 「この時の主人公の気持ちを答えよ」って、「わかるかーい!」と突っ込みたくなる。
  • 「古典」を含めると、もはや言語が違いすぎて、外国語×歴史のハイブリッド学問ではないかと思われる。「漢文」に至っては、日本じゃない国の言葉では……?

などなど、

実に巧妙で、気まぐれで、わかりにくく、それでいて捨て置けず、結局必要としてしまう猫のような性格である。(……ん、猫?←布石)

誰もが思うように、

要するに、国語力、って、なに?

文章を読んだりして、結局何力を養ってるの?

ってのがめっぽうわかりにくい学問だ。

そして、問題の最たる点は、(まぁどの学問についても言えることだが、)

答えがない(←主に読解とかの、心情を述べよ的なヤツね)。

その点、主要5科目とかに入っておきながら、案外芸術に近かったりする(と筆者は思う)。

さらに、

具体的にどう学習していいのかがわかりにくい。

国語の点数を上げたい、と悩む中学生くらいの頃には「心情答えよ」問題が出てきてて、答えを文中から探せとか言われても、探し方がわからない。

正確に言えば、正解は1つが原則の日本的知識型学習において、誰をも納得させられるよう、答えの導き方にはある程度のルール(皆が同じ解答に辿り着くための手法)はある。ただ、説明は難しいし、出題者によってかなりまちまちだし、そもそも本当の心情なんてものは当該登場人物にしかわからないはずである。

「読書すると国語の点数上がるよ」なんて塾講師してた時は言ったりしてたけど、
なんでそれで上がるのか、本当に上がるのか、みたいな根拠エビデンスが明確に説明出来なくて、途方も無く雲を掴ませるようなアドバイスだな、と自分でも首を傾げていたものである。

とにかく、国語が苦手ではなかったものの、「大好き!」と言える程のはっきりとした感情までは抱けなくて、いつも〝国語さんは常にぼんやりしていらっしゃる〟と思っていた。

国語って、何なんだろう?

国語を勉強して、一体何が学べるのだろう?

そんな風に思われてる方に、ほんの少しの考えるきっかけにでもなれば幸いだ。

引用話~要約してもらわないとわからニャイのである。~

考察における登場生物

わからないものを真正面から見つめ続けていても、同じ顔が映るだけである。そんな時、国語のような性格の(?)弟ニャンが首をもたげた。

このニャン、本ブログには何度か登場しているが、改めて軽く説明すると、大の日本語オンチ、国語力皆無の理系脳である。

この国語力がすこぶるおとった弟ニャンを見ていたら、その国語力というものが何なのか、浮かび上がってきたような気がした。

無論、国語について唯一の解答というものはないのだから、以下は筆者の一説に過ぎない点には注意だ。(←曖昧に逃げた。)

 その他登場人物……桃花:筆者(ニャンの姉)、おかあ:桃花の母

事例1:議論編

〝女は三人寄ればかしましい(=うるさい)〟と言うが、女はたった二人でもお喋りに花を咲かせる。次から次へと話はめくるめく展開し、よくまぁそんな長い間、本来の目的である食事の手すら休めて没頭するものだと、呆れ果てる程である。(←自分で言うのね。)

話したい人物が話したいことを話したいように話し、綺麗に蛇行だこうしているように見せかけて往々にして辻褄つじつまが合わず、内容は飛んでは戻り、終わったはずのものがまたぶり返したりして、文字に起こして読み返してみようものなら、実に支離滅裂しりめつれつである。相手の話に関心を抱いているふうに頷いてみせながらも聞いてなどおらず、相手が言ったことはおろか、自分の言ったことさえ忘れてしまう始末である。(ウチのおかあだけ?)そんな混沌こんとんとした〝お喋り〟という儀式ではあるが、話し終わればだいたいスッキリしている。そして解決したい悩み事自体も食事も、一向に進んでやしない。

その中に、日本語の不得手なニャンが1匹、ちょこんと加わっている。桃花宅の食事時などの光景はこうであった。

そんな光景を前提としていただきながら、昔の桃花宅のとある日の出来事をご紹介しよう。

やはり、母親と私は互いに喋りまくっていた。テレビをきっかけに、だっただろうか、おかあの一言がきっかけだっただろうか、それが何にせよ、一度火がつくと、女のお喋りは止まらないものだ。

我が家の女性陣がマシンガンのように言葉を放ち続け、お互いの好みや見解を(価値観が真逆のために大抵噛み合わず、半ば口論となる)言い合う。爪を差し挟む隙間もないニャンでも、時折わかったふうに相槌を打っている。そうこしているうちに話は佳境に入り、あーだこうだと熱く議論を闘わせた上で、終局する。

そして、互いの立場と結論までが明確になったところで、ニャンがポツリと、言うのだ。

「つまりどゆこと?」

一同唖然。だが、理解力の乏しいニャンのために、「だぁかぁらぁ!」と声を合わせた女性陣は、また要約もせずに同じ話を同じように繰り返す。そして、同じだけの時間が流れる。よくもまぁ、あんな風に録画のように、同じ話を飽きもせず(むしろ熱意が高まってたりする)話せるものだ。

ニャンの反応をちゃんと確認しながら進めるが、きちんと相槌を打ち、「ふーん」「なるほど」などと感じ入ったように聞いている。

そして、互いに言いたいことを言い尽くすと、再び疲労感による一休止が入る。

さすがにわかったでしょう、二回も聞いたんだから、ちゃんと頷いてたしね、

と二人が思いながらニャンを見つめると、ニャンは再び、

「で、つまりどゆこと?」

と言う。

「だぁかぁらぁ!」(※以後繰り返し)

なんとも間抜けな光景である。

事例2:小話編

二人、議論ばかりしている訳でもない。

おかあはテレビやらなんかで仕入れて、よく芸能人の過去なんかをしてくれた。(大抵昔の人だったので、ニャンはよく、「その人まだ生きてる?」と言っては親を怒らせ、私を笑わせていた。)私も名前くらいしか知らない芸能人なんかを、こうしてああしてこうだったけどこうなった、みたいに、ストーリー風に語ってくれたものだ。

或いは芸能人の話に限らなくても、雑学のようなことや、ちょっとした失敗と工夫や、どこかで見知った人の特徴的な小話なんかを話してくれた。

一つの話をよりわかってもらうべく説明しようとすると、どんなに簡潔に言い表そうとしても、必要最低限のなぞらなければならない話の筋というものは残る。当然、余計な部分までを蛇足のように付け加えてはいい説明とは言いがたいが、結論だけや主眼だけ、というのでは、相手の心をき付ける説明にはならない。

機嫌が良い時のおかあのそうした話を、私は興味深く聞いたものだ。

同じ空間ではニャンも、真正面のテレビを見つめながら相槌を挟んでいる。そのタイミングに狂いは無い。話もそんなに長く難しいものではない。

ところが、話の結末で言いたいことの趣旨がバーッと脳の中に広まり、私が深く関心した時、ニャンは、

「つまりどゆこと?」

とこれだ。

話し手側からしたら、「だからいま全部言ったでしょ?」ってなる。呆れてものも言えない。

こういった、物語の紆余曲折うよきょくせつといった流れをむことが出来ず、数学の「∴」マーク的に結論しか必要としない猫のような生き物には、話の要約解説マニュアルを渡すしかあるまい。

事例3:日常的な会話編

ニャンと話をする時は、常に慎重な注意を要する。

ニャンも当然、日本人なのだから、話はする。(間抜けなように見えて、妙なこだわりとか潔癖とか、実にめんどくさい性格だ。)そして私ともたまに話をする。(今は私が実家を出てしまったけど、昔はね。)日本語音痴とは言え、一応文化圏は日本諸国だ。

お喋りとは双方向なのだから、お互いに話し合い、確認し合いながら、相手の言いたいことを両者の中で同一化させてゆく作業だ。話者の方も話が苦手でも、相手の反応を見ながら、こうかな、こう言うといいのかな、ってのを探りながら進めることが出来るし、聞き手も相手と歩調を合わせて一つのストーリーを生み出していく、小さな小さな生きた創作物のようなものだ。そこがお喋りの醍醐味のようなもの。

で、ニャンと喋っている時に私が、「それは○○みたいなものか」って言ったら、話が通じていたみたいだったから、私はそのまま話を続けた。ニャンもそれっぽい返事をして、会話のキャッチボールというものが出来、もう誰の目から見ても明確に、会話は成り立っていた。私は弟とのお喋りの時間を心地よく楽しんでいた。

そしたら、話もすっかり終わった最後に、ニャンが、

「ところで、○○って何?」

って。

相槌の意味ー!!!

ニャンの悪いところは、いっつも話を最後まで聞いておいて、最後の最後で重大な点を聞いてくるところだ。わからないならわからない所で、ちゃんと質問しろ。そして知ったかぶるな。適当に相槌を打つな。そこわかった前提でないと先の理解ができんでしょ、って所で恥ずかしがらずに聞け。国語力を鍛えろ!!!

悟り

この度重なる経験を経て、私は悟った。

国語力とは、〝要約力〟のことだ!

 ※注意:ネタ風記事なので断定してるけど、実際はいくつもある重要な要素の一部分に過ぎません。

〝国語力〟について

[読み手側]〝国語力〟を学ぶ意義と具体的学習法

国語学習の目的

国語という学問において、

■論説文:筆者の主張を読み解く

■小説:登場人物の心情を読み解く

のがそれぞれの目的だとするならば、

「主張」や「心情」がわからない(=要約できない)ならば、目的が全く達成されていないに等しい。(国語の授業っぽい笑)

それらを理解するために、

論説文ならば、接続詞(「しかし」=逆接、とか、「すなわち」=説明、とか)

小説ならば、比喩(悲しみの気持ちを雨などの天気で表す、とか)

あたりを学んでいくのだし、そもそもの文章を理解していくために、文章のルール(文法とか)を学んでいくのである。

自分が学生だった頃は考えつきもしなかったけど、

〝要約〟、これは国語で非常に重要な要素を占める項目に違いない、とようやくわかった。(←ダジャレ)

要約とは、長い文章や説明の中でも特に重要な部分、筆者が特に言いたいこと、を端的たんてきに、短くわかりやすくまとめること、である。

つまり〝要約力〟とは、「つまりどゆこと?」がわかる、ということだ!
↑すごく要約要素を入れ込んだ

国語を学ぶ実務的意義

そして要約力が大事なのは、何も国語の授業や文学に限った話ではない。

日常会話や(ニャンよ、聞け)、仕事での商談、プレゼン、上司部下への話や、学校での授業、友達との会話、家族とのコミュニケーション、店員さんや窓口の人と話す時、などといった会話を含むものはもちろんのこと、

説明を読んで理解する時、職場のマニュアルや規則・法律などを学ぶ時、教科書に書いてあることを理解する時、検索結果に書かれてあることを理解する時、など、

ありとあらゆるコミュニケーション言語理解において必須スキルなのである!

いや、当たり前過ぎることを偉そうに言っているだけかもしれないが、要約力の乏しい人って、案外いると思うのだよね。(中でもニャンは特殊だが。)

いわゆるコミュ力(=コミュニケーション力)って、性格が明るいとかノリがいい、とかの要素も大事かもしれないけど、

相手の話を理解する、言いたいニュアンスを汲み取る、会話のキャッチボールが出来る、ということだってとても重要だよね。そしてそれらが出来てない陽キャって結構いるでしょ。

国語好き、とか、読書好き、とかって言うと、何故か、陰キャとかメガネとか引きこもり、とかっていうイメージがついて回るのだけど、

コミュ力の一部としても大いに重要な要素である要約力を高めるには、国語って有益かつ必須だ。

以上のことから、国語を学ぶ理由の一つとして、人間的理解力の1つたる〝要約力〟さらには〝コミュニケーション力〟を鍛えるため、と考えたら、実生活に無縁な学問とも言えなくなるのではないだろうか。

国語力の具体的な鍛え方

要約力(≒国語力)の具体的な鍛え方というのも一言では説明しにくいけど、私は、次の文章を100字で要約せよ、みたいなのを頑張った(というか楽しかった)記憶がある。(基本的な読解力みたいなものは前提条件として。)けど、実際あまり国語の授業ではやってないような気がした。採点とか大変そうだし、適切な配点とか解説とかが難しいだろうし。

【参考】要約の方法(桃花的)

①文章の中で大事な部分を拾う(丸などしるしをつける)。
  ※大事な部分:キーワードとなる部分、筆者の主張(結論)、登場人物の心情(が動いた所)

②あらすじ、話、主張の流れがわかるよう全体を簡潔に捉える。
  ※例1(小説):誰が、こうして、こうして、こうなった。
   例2(論説):これについて、こうだから、こう思う。

③ ①をつないで②の中に組み込み、文字数を調整する。

……で、結論、読書をオススメする、という面白くもないアドバイスにしかならないのだ。確かに一朝一夕にはいかない。だが、この記事にも並んでいる黒い文字記号から文意を理解するってだけでも大変なのに、さらに筆者や登場人物の主張や心情を理解して、なんていう途方も無いことができるようになるまでには、長い時間をかけるしかないのだと思うよ。

読書をする → 文章理解力が高まる → 他の教科も軒並み上がる

主な理由:問題の言っている意味が理解できるため。教科書の理解が深まるため。

ってこともあるから、国語は点数が上がりにくいからといって捨てては駄目だよ。

【参考】読書や要約のヒント(桃花的)

大量の本や文章を読むのは初めは嫌だと思うけど、下記がヒントになるかなと思うのでご紹介。

メリハリ(緩急)をつけて読む。

ダメな例

全部を同じテンション(集中力)で読むのではなく、大事なところが大きなインパクトで入ってくるようなイメージで読む。

 目的:・大事な部分(=要点)がどこかがわかるようになる。
    ・つまらなさ(飽き)防止、集中力の効率的な使用。

大事な部分(キーワード)を意識する。

 目的:・大事な部分(=要点)をつなげるだけでも結構文意(言いたいこと)がわかる。
    ・要点(キーワード)は必ず設問で聞かれる。

  

まぁでも、〝要約力〟って、大事ってことはわかるけど、鍛えようとしてもすごく難しいものではあるけどね。

※注意:参考の部分は教科書とかに書いてある方法じゃなく、個人的な方法(イメージ)なので参考までに。

[書き手側]〝国語力〟を発揮できない媒体

皆さんの中には、長々と文章や小説を読んで、こんな感想を抱いたことは無いだろうか。

〝結局何が言いたいの?〟

或いは小説といった文章に限らなくても、コミュニケーションにおける説明下手の代名詞として用いられるフレーズと言ってもよかろう。

(※注意:当然、ニャンのように、読み手側に国語力が無い可能性だってある。)

〝結局何が言いたいのか〟、〝結局どんな物語だったのか〟、これがわからないと、時間を費やしてその文章を読んだことが、まるで全くの無意味な時間だったようにも思える。(当然、表現描写が優れている、とか、登場人物の描き方が素晴らしい、とか、文章として評価される項目って他にもたくさんありはするけど。)

好みとか雰囲気とか、他の様々な要素はさておいて、

いわゆる〝入ってこない文章〟とか、ひどく言うと〝悪文〟みたいなものは、つまるところ〝読者が要約できない文章〟ではないかと思う。

※この〝要約〟には、広義には雰囲気的なもの(漠然ばくぜんと受ける感覚)も含む。たとえばピカソの絵を見た時に、「よくわからないけど、すごい」って感想を抱いたなら、それはその「すごい」に何かしらのメッセージ(=要約)が含まれてると私は捉えている。

読者に〝要約〟を与えさせない、というのは、「個々の文章の意味は理解できたけど、結局何を伝えたいのかわからなかった」という、ザンネンな小説や印象に残らない説明文を読んだあとに感じる、アレである。

もちろん、表現描写、物語構成の巧みさ、登場人物の描き方、など、名作を決する要素はたくさんあって、また好みも人それぞれ、時代背景もあるし、流行り廃りもあるし、文学の善し悪しとは一概には言えないものだ。

だが、そもそも読者が〝要約〟できないならば、〝伝わっていない〟と同義ではないだろうか。

読み手に〝要約力〟を存分に発揮させるためには、当然書き手にもそれなりの文章力が必要のようである。これがいわゆる、〝文章がうまい〟というやつだ。書き手側の方からしても、〝要約〟というものは重要な鍵になっていると見て間違いないだろう。

あとがき

「答えがハッキリしてないもの、嫌い。だって何を勉強していいかわからんし」

私も上記のような理由で、国語ってとっつきにくかった。

今って唯一の正解を求めるというよりも、創造的な(?)思考力を学ぶような学習にシフトしていると思う(ちゃんとはわかってない)が、国語の立ち位置ってどんな感じだろう?

いずれにせよ、目的がちゃんとわかってないことを学ぶのは、大人だってしんどい。

という訳で、国語で学べる力の一つについて考えてみた。

国語力とは、〝要約力〟のことだ! (再掲)

そしてそれは、〝コミュ力(≒コミュニケーションスキル)〟に通じる。

やっぱり〝要約力〟ってすっごい大事だ!(私見かつ本記事の要約)

筆者
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考えれば考える程、国語とか文学って、芸術に近いよね?って思う。

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