【創作のヒントその2】虚構(フィクション)か、現実(リアリティー)か

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筆者
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執筆歴20年超の桃花です。

今回も、創作物を考えるヒントになるかはわかりませんが、物語のリアリティー等について考えてみます。

いつもの通り、読み物の一つとして気軽に読んでくださいね。

フィクションか、ノンフィクションか

まえがき

以前職場の上司で、ものすごい読書家の方がいらっしゃった。その方曰く、


「自分は小説は読まない。どんなに感動的であれ、それは所詮作り物でしかないからだ」

とのこと。

もっぱら小説畑の私でも、その考えにはなるほどと思った。それまでそういう考えをしたことが無かったし、たとえ自分とは異なる意見であっても、そういう捉え方があるのか、と、目からうろこものだった。一理ある。

この考えには、もちろんいろいろなご意見があろうと思う。私も一意見として理解しただけで、同意見ということではない。

この上司は自分の意見をはっきりお持ちの方で、上記の言葉も他の考えをズバッと切り捨てたというよりは、ご自身の見解を話したに過ぎない。(たぶん)

どれくらいはっきりしてる方かと言うと、私が仕事で通知文書の案文を作成し、確認をお願いしたところ、「自分は対外的な文書の敬称は『様』ではなく、すべて『殿』で統一している」と言われ、修正した経緯がある。いわゆる〝かみしもを着たような〟人とはこのことかと。……それはさておき。

冒頭の言いぶりはすごくあの上司らしい言い方だと思ったし、〝世間や周りがどうであれ、自分はこう思う〟ということをはっきりと表明出来る人って素敵だと思う。私もそうありたい。

ノンフィクションの効用

確かに架空の人物が空想の世界で四苦八苦するよりも、リンカーンやガンジーやその他実在の人物が、実際に身に起きた艱難辛苦かんなんしんくを耐え抜いて偉業を成し遂げた、という方が感激は大きいのかもしれない。小説のように、作り物の感情に翻弄ほんろうされる(『騙される』とでも言うべきか)よりも、実用書で科学や学問の知識を習得したり、実体験に基づく成功哲学なんかを吸収した方が有用なのかもしれない。

フィクションの効用

言うまでもない話ではあるが、実用書やノンフィクションと小説とは、提供するものが異なる。それぞれの特徴や違いについて語り出すとややこしいことになるのでここでは割愛するが、小説とは何かについて考えるならば、人の空想を原料とした作り物であるにも関わらず、読者の感情を揺り動かす不思議なものと言えるのではないか。感情移入(共感)だけでなく、まさにその場に居合わせるかのように感じる臨場感や、その世界に引き込まれ夢中になってしまう没入感、ミステリーであっても、ドキドキ、ワクワク、なんとしてでも見抜いてみせる、という高揚感まで、すべて実在しない作り話がもたらしている感情なのである。

こんな名言がある。

〝芸術とは、最も美しい嘘である〟

(ドビュッシー:フランスの作曲家)

美しい創作物を作る人は、言葉まで美しい。そして私のようにだらだらと長く書き連ねることなく、たった一言で真理を突いてくる。素晴らしい。

小説という虚構について

仰る通り小説とは、作り物だ。ヒントやネタなどは他のものから拝借することもあろうが、基本的には作者の頭の中で創られ、それが活字としてこの世に躍り出て、1つの物語となる。実在しないキャラクター、事実ではないストーリー、その話の展開や細かい心の動き、場面、風景、天候、景色、場所、味やにおいや触覚まで、そのすべては作者が想像し、創造したものである。私はここに1つの感動を覚える。

だって、凄くない? 専らの読者であれば、作家は書くのが当たり前だと思ってしまうのかもしれないが、まず現存していないものを作り出す、って凄いことだよ。頭の中でいろいろと想像し妄想したものをただ書けばいいじゃん、と思うかもしれないが、結構そんな簡単なものでもないよ。頭の中でイメージやアイディアがポンポン浮かぶというのと、それを文字として表現するというのとは、両者をうまく繋げるパイプみたいなものが脳の中に必要なんだよ。

崇高なものまでは不要だけど、文章力というか描写力みたいなものも必要で、結構これ地味な努力とか必要だったりするよ。

あと実は、〝読める〟と〝書ける〟もイコールではない。どんなに読んでても、書く練習というのをしてなければ書けない。当然読書量多い方が書けるには違いないが、読んでるだけでは書けない。(そうでない天才もいるだろうけど。)というのは、私より遙かに読書量上回る友達の文章なんかを読んで思った。

考えや意見を述べる、といった文章であれば別だけど、小説という舞台で書くっていうのはやっぱそう簡単なものでもない、と私は思う。(私が非力で不器用なだけかもしれないが。)注力すべき項目がたくさんあるしね(文章力、ストーリー構成、登場人物造形、会話と地の文、スピード感や重量感、心情描写、展開、帰結、余韻、推敲とか他もろもろ)、まず想像力無いとダメでしょ、そしてそれをうまく文字に表せるか(私ここらへんが既に苦手)とか、矛盾が無いかとか、読者に響くものがあるかとか、そして1つの物語として最後まで完成させられるか、とか。最後の項目、結構大きい。アイディア浮かぶし文章も書けるけど、完成しない、って人もよくいるみたいだ。

そういういろんな事情も知っているからこそ私は、手に取る本が1人の作者によって時間と労力をかけて生み出され、多くの人の手を介してこうして売られているのだ、というだけでも「凄いわ」と思うし、中身の文章や物語が惹き付けてくるものならば更に、「ホント凄いわ」と心底感動するのである。

小説を生み出すエネルギー

小説を生み出すのってね、小説に限らずすべての創作物に言えることだろうけど、

ものすごいエネルギーを使うのだよ。頭? 体? 心? 神経? 精神? とか。私はもちろん書くのは好きだけど、エネルギーの消費とんでもないわ、というのは毎度実感する。書くたびこんなにグッタリするのは私だけなんだろうか。いや、体力精神力消費という形で現れなくても、エネルギーの大量放出という点ではこれは共通事項だと思うのだよね。

この記事を読んでくれた方が、少しでもそういった事に思いを巡らせて小説を手に取ってくれたら嬉しいと思う。(って私はプロじゃないけどね。)

結論

まぁ、今回のテーマによらずすべてのことに言えることなのだけど、

どっちが正しいか、とかじゃなく、個々人がどっちが好きか、だよね。別にどっちも読む、だってアリだし。そして先にも述べた通り、両者は目的と効用が異なるのであって、どちらかがどちらかを議論で打ち負かすという話ではない。

でも冒頭で書いた通り、ノンフィクション推し側の1つの考えというのを知ったのはすごく参考になった。他人の意見を知る、というのは、たとえ共感や納得を伴わなくても、1つの知見を与えてくれる重要な機会だ。

リアリティーを求める VS フィクション感を丸出しにする

リアリティーを求めろ

昔、とある小説の書き方指南書を読んだ時、「リアリティーを求めろ」というのが書いてあった。どんなに巧みに書いていようと、ちょっとでも嘘っぽいところがあると、読者はたちまちめてしまうというのだ。

例としてあげられていたのが、男が書いた女、というのについて、女からすると「こんな女いない!」と憤激してしまうということだ。「こんなの男の願望を詰め込んだだけの女だろ!」と本を破り捨てたくなる淑女しゅくじょがいらっしゃるとか。無論逆(男→女)もまたしかりであろう。

これを読んで私は、(更に)書けなくなってしまった……。いや、言ってることは凄くわかる。わかるけど、どんなに観察眼がマイクロニードルくらい鋭い人でも、やっぱ男である以上、完全に女性の気持ちとかもろもろはわかり切れない、と思うのである。女の側だって、どんなに男を見て推察して描こうとも、男性そのものの気持ちとか、その脳を以て心中で何を考えてるかとかまでは、100%知り得ないと思うのだ。だって男は基本ずっと男で、女はずっと女であって、異性を書こうとする以上、自分の性別側の目から異性を通して書いているに過ぎない。(第三の性の話を含めると複雑になるので、この場では簡略化して省略させていただいている。)

リアリティーの追求についてそんな細かい点までお叱りを受けてしまうというならば、一体どこまで現実リアルの丸写しをしなければならないのか。

リアリティーについて考え出したら、その事件が起きる前に普通近くの人が通報して警察来るからそこまで発展しないよね、とか、この場面で他に誰も人がいないっておかしくね? とか、ここでトイレどうしたの、とかさ、いくらでも突っ込めるものだし、いろいろ考え込み過ぎる私はそういう可能性を考え始めたらほとんどパニックになった(笑)。

書けるようになりたくて指南書を読んだのに、ますます書けなくなって書くのが嫌になる、っていうこのあるある残念パラドクス

あの頃の自分に言うならば、「まずは、あなたが書きたいように書いていいんだよ。」縛られると私は一歩も動けなくなるタイプだ。やればやるほど苦しくなる〝好きな趣味〟程しんどいものはない。

フィクション感を丸出しにする

〝リアリティーを求めろ〟の項目は私の中でずっと引っかかっていて、長年執筆の足枷になっていたのだけど、そんな私にとって、下記の動画がすごく考え方を楽にしてくれた。

曰く、〝2Dのコンテンツには、2Dに合う声(2D用に加工した声)がハマる〟!

……いや、なんでこの一見無関係な動画が私の執筆を大いに救ってくれたのかって非常にわかりにくいところではあるが(笑)、

〝アニメにはアニメっぽい絵柄とそれに合う声があってこそ、あのアニメという独特の世界観を作り出している〟

というところから、

〝加工性強くとも、フィクション感を思いっきり前面に出した創作的世界観を作ればいい〟

という考えに思い至った。

これによって私は、リアリティー至上主義の呪縛を解いたのである!

(上記動画の趣旨とはかなりズレたところで勝手に自己解釈して解呪してます。)

※リアリティー至上主義からの脱退だけでなく、その他の点でもこの動画はいろんな気づきを与えてくれて、個人的にものすごく有益だった。あんじょー先生いつもありがとー!

小説の2分類から考える

小説の中にも、いろいろとジャンルがある。まず小説なるものを大別すると、純文学エンタメ系という2種類に分かれる。純文学というのは、太宰治とか芥川龍之介とかのいわゆる文学性の高いヤツ。エンタメ系というのはもっとくだけた、読者を楽しませる目的で書かれたSFとかファンタジーとか。(説明大雑把。)ただしこれらは完全に2分されるものでもなく、いずれともつかない両者を兼ね備えたものだってある。

リアリティーの話をすればこの両者に差異は本来無いんだけど、エンタメ系だったらそんなガチガチにリアリティー追求しなくてもいいんじゃないか、と思った。(個人的には純文学でもそんな窮屈に考え過ぎなくてもいいとは思ってるけど……。)

フィクション感を丸出しにする、というか、むしろリアルから離れた世界であるところが本という異世界への逃避感とか没入感を呼ぶのであって、ここでリアリティーは重要項目ではない。必要なのは、現実世界をも忘れさせてくれる、〝別の異次元に引き込む吸引力〟なのだ。

ドラえもんやワンピースや西遊記やハリーポッターを、「嘘くさい」と醒めた目で見てはならない。フィクションだったらとことんフィクションらしく、作り物の世界に入り込むのだ。そして当然読者(視聴者)は、虚構であることをわかっててハマるのである。

思いっきり嘘(フィクショ)りたい!

アニメキャラってさ、生きた登場人物というよりは創られたキャラクターじゃん? この違いわかります?

小説はリアル感も大事かもしれないけど、登場人物を3D(三次元:生身の人間に近い)で書くか2D(二次元:登場人物というよりもはや〝キャラ〟)で書くかとかも含め、いろんな表現の仕方があっていいと思うのだよね。

異性への理想を思いっきり詰め込んだっていいじゃん。絶対的に実在しないキャラを滅茶苦茶に動かしたっていいじゃん。突飛で嘘っぱちであり得なくて虚構まみれのストーリーだっていいじゃん。それでも魅力的ならキャラにファンがつくし、感動もするし、そういう世界がどこかには存在してるように思ってもらえるようであれば、創作は成功だ。

というかマンガとかアニメのコンテンツはほとんどがそれ(=憧れ、妄想ect.)で成り立っているではないか。所詮嘘(フィクション)なんだし、現実世界を忘れさせる程の異世界に読者を連れていけたらそれが最強で最高の創作物フィクションに違いない。

アレでいいんだ、と思った。(謎会得) まぁこんなところでつまづく人なんて私くらいだとは思いますけどね。

私はフィクション、もっと言えばファンタジーとかが好きだし書きやすいんだなぁと改めて自覚した。ファンタジーを書く時でも、殊更リアリティーの矛盾が無いかを気にしすぎてて、以前はすごく窮屈だった。

だから、細かいルールとか指摘事項とかをあまり悩み過ぎずに、超フィクションっぽく書いたりして遊びたいなと思った次第。自分が書きたいように書くのが一番です(再掲)。

結論

いつもの如く偉そうに書いてきたけど、活字に起こすと当たり前のことしか言ってないな……。気づかないんだな、こういうことも。執筆って孤独な作業だからさ、つい視野が狭くなりがちだけど、作品本体だけじゃなく、こうしてモヤモヤしてることも活字にしてみると可視化され整理されていくんだろうな。(読者のいる作家さんっていいなぁ(ポツリ)

いずれいろいろ書いたり読んだりしていく中で、自分には何が合っているのか、自分は何が好きなのか、の矢印の先を徐々に鋭くしていく感覚で創作に触れていくのが良いのだろう。突き進んだりぶつかったり泣きじゃくったり悩んだりしながら、執筆街道を駆け抜けていきたい。

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